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拡散していく。明確だったはずの自分と世界の境界線が消失していく。音も匂いも、かつての記憶の欠片さえ薄れていく。そして完全な無に溶け込む前に、それは突然やってきた。
高波に攫われる衝撃。何もなかった場所から力任せに引きずり戻される。
襲いかかって収束していく五感。感じたことのない不快感と快感の波が襲いかかる。何もかもがめちゃくちゃに撹拌されて、区別がつかない。そして突然、目隠しと耳栓が剥ぎ取られた。スポットライトの当たる舞台へ弾き出されたような。
「ーーおい!」
「!」
フレディは横っ面を弾かれた気分で我に返る。
「聞いているのか?」
窓際に立った男ーーアーウィンが、苛立ちを含んだ目で見ていた。一瞬自分の居場所が分からなくて、混乱する。辺りを見回して、ようやく落ち着いた。そうだ。ここは姉ちゃん家の居間だっけ……。
「ゴメン。途中から全然聞いてなかった」
正直に答えると、彼は軽蔑した眼差しをよこす。
「仕方ないでしょ、キョーレツな体験した直後なんだからさあ。頭が一度ザクロになってんだし、そりゃぼーっとするってー」
言い訳をしながら、フレディは自分の後頭部を弄る。傷も穴もないが、微かに純痛が残っている気がした。砕かれた骨の記憶だろうか。
「もう一度割ったら、スッキリするんじゃないか。よかったら手伝うが」
にこりともせず、アーウィンが提案する。
「やめてよ。何が楽しくて、一生に二回も頭を割んなきゃいけないの。さすがに頭悪くなるよ。それにあんただって、今そんな体力ないでしょ」
彼の顔色が悪いのは冥使だからと言うばかりではない。アーシュラに舌を切れて平然としているが、実際にはかなり消耗している。舌はいずれ再生するだろうが、当分は無茶できないはずだ。
「しばらくは大人しくしてなよ。俺もなんかだるいし、今戦うの、面倒〜……」
フレディはひとつあくびをすると、ソファに深く埋もれる。あの時何が起こったのか分からないまま目を開ければ、隣には血まみれのレナが倒れていた。その光景に青くなる。
しばらくしてそれが何を意味するのか、自害した自分の身に何が起きたのかを悟って、更に青くなった。図らずも「奇跡」が起きた。一度暗い死の淵へ落とされたフレディは、再び明るい場所へ引きずり戻されたのだ。その強力な血の力によって。
「あれは、確かに危険だわ」
高い天井を見上げながら、独りごちた。今ならアーシュラが血に溺れた理由も、少しは分かる。
央魔を含む上級冥使はその舌を使い、自らの意志で血を相手に送り込むことができる。それを授血という。央魔の血は体内に入っても入蝕は起きない。どちらにせよ冥使の血による干渉は、痛みと不快感。そして快感が伴う。
特に央魔の血の場合、その快感の度合いが強くなる。実はこれこそが、央魔の血が危険視される理由の最たるものだ。自然の摂理を覆しかねない強すぎる力も、その一因であることはもちろん。最も警戒されているのは、その血への依存である。危険と知っていても、二度三度求めたくなる強くて甘い薬。それは麻薬に例えられる。だからこそ、央魔の血は禁忌の一つとされる。受けることはもちろん、与えることもだ。例え結果が最善だったとしても、ヒト以外の血が体内に入ることは変わりない。
ヒトには強力すぎる、不安定な血。それは薬にも毒にもなる……。そして何よりも、奇跡のために央魔が搾取される存在であってはならない。ーー今回のアーシュラのように。
フレディはソファに身を預けたまま、チラリと視線だけアーウィンに送った。
「あんなこと、もう絶対やらせないでよね」
「別にやらせたわけじゃない」
しれっとした顔で、彼が答える。
「レナが倒れて見ていたら、お前が勝手に生き返っただけだ」
「黙って見てたんだから同じことなの!」
「邪魔した方が良かったのか」
「そういうわけじゃないけどさ……」
口を尖らせた。生き返った身としては、そうですとは言いにくい。
「だけどあんたなら、姉ちゃんが他人に血を与えるのなんて嫌がりそうじゃん」
レナに異様な執着を見せるこの冥使が、それを黙って眺めているというのはなんとなく違和感があった。不審を込めて視線を送る。珍しくいい澱む気配の後、彼は呟く。
「興味があったんだ、どうなるのか。本当に央魔に『奇跡』が起こせるのなら、見てみたかった」
央魔の血の奇跡については、伝承の域に達するものがいくつか報告されているだけだ。その血がどのような条件で、どのような力を発現させるのか。ほとんど解明されていない。
今回、「新鮮な死体」であるフレディの側で、「央魔」のレナが大量の血を流した。それが偶然「授血」という形になったのだろうというのが、二人の一致した見解。央魔の血については、冥使であるアーウィンにも分からない領域なのだろう。
「まあ……結果からすれば、お互いにとって良い判断だったんじゃないか?”村”としてもこんなところで次期大老師を失うのは痛手だろう」
「うわ、そんなことまで知ってんの……」
フレディはちょっとうんざりして、小さく舌を出した。彼は村の首座である大老師の位を継ぐことが内定している。現在、空位となっている最高位への就任を待ち望む者も多い。
「お前の存在は、今後レナにとって有益だ。彼女が”村”に入るのであれば、なおさら」
「まあねえ」
央魔となった者は”村”で保護下に置かれ、同時に監視下に置かれる。自分が生きている以上、レナも通例通り”村”へ連れて行くことになる。
しかし、彼女にはいくつか不安要素がある。”村”で受け入れるには、ちょっとした根回しをしなからばならないだろう。それには自分の持つ肩書きが多少役立つ。それについては特に異存はないのだが。
「で?」
短い問いかけに、アーウィンは微かに眉をひそめた。
「姉ちゃんは央魔になったよ。あんたの目論見通りね。それで?」
「…………」
「俺思うんだけどー」
ソファの上であぐらをかく。
「姉ちゃんの友達を地下に放り込んだのって、あんたの発案じゃない?」
「……なぜ」
「アーシュラの行動だって、考えるには無理があると思うから」
アーウィンが物憂いながら、体ごとこちらに向き直った。フレディはそれを、続けろという意味だと解釈する。
「姉ちゃんは大事に大事に大事に甘やかされて育ってるもん。基本受け身だ。”影”が分離している状態なら、なおさら自分から動こうとしない。拠り所を全部絶ちでもしない限りね」
「…………」
彼の表情を見守りながら続ける。
「友達を犠牲にするっていうのは最悪な方法だけど、姉ちゃんを動かすにはすごく効率的な方法だった……。だけどその方法が『効果的』だってアーシュラが気付いてたんなら、こうはならなかったと思わない?」
「どういう意味だ」
「そもそも友達の存在が大きいものでなきゃ、この策は効果的にはならないってこと!」
「ふん……」
「そんでアーシュラが気づかなくて、あんたが気づいてたことがもうひとつある」
「なんだ」
「姉ちゃんが友達を犠牲にしたのが誰か知ったらーーただ泣くだけで終わってくれるほど、穏やかな気性でもないってこと」
そう言って、フレディはニヤッと笑った。
「あんただって、バレたらまずいんじゃない?」
「それが事実かどうかはともかくとして」
アーウィンは、あくまでとぼけ通すつもりらしい。推論だと釘を刺した上で、挑むようにうっすら笑う。
「バレやしないさ。おまえさえ黙っていれば」
「しゃべるかもよ?俺、姉ちゃんには甘いもん」
「授血」
「!」
彼の発した短いキーワードに、うっと口をつぐんだ。
「央魔の血で生き返ったなんて”村”に知られたら、次期大老師と言えども流石にお咎めなしでは済まないさ。悪くすれば、お前とて狩られる立場だ」
「うえ……」
ぐうの音も出ない。