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「は、はぁ?」
「また、貴殿が無理無体を強いました女性たちへの慰謝料全ても負担しております。店の繁栄どころか、店の名前は貴殿のおかげで地に落ちております」
「き、貴様らの努力が足りぬのだ! 我が輩のせいにするな! 大体、高貴な我が輩の種を賜れるのだ、感謝するのが当然だというのに……慰謝料とは不届き千万! 我が輩が罰してくれるわ!」
「や。罰されるのは貴様だから」
いい加減御託を聞いているのに疲れたので、溜め息交じりに屑に向かって吐き捨てた。
「な、何を言っているんだ? ん? 可愛いからといって不敬にも程があるのだぞ?」
私から話しかけたからなのか、屑は眦を下げながら近付こうとする。
「下がれ、犯罪者が」
しかしノワールとランディーニより先に、ダイオニシアスが許さなかった。
屑の首筋の、ちょうど頸動脈の位置に鋭い剣の切っ先が突きつけられている。
つーっと鮮血が一筋伝った。
「この御方は最愛の称号を持つ御方である。王族であっても頭を垂れねばならぬ」
「最愛の称号を持つ奴って! ろくなのがいねぇだろ? いくら可愛いからって!」
「……この国の繁栄は、時空制御師様の御力が大変大きい。この御方は時空制御師様の最愛。貴様如きが、貶めていい御方ではない。それだけで、万死に値するっ!」
「時空制御師の、最愛? あの方は、お隠れ遊ばしたのでは?」
「元気ですよ? この世界にはおりませんけど」
「お、おらぬのなら! 今この世界におらぬのならば、関係ないではないか! 最愛様! 時空制御師の代わりに私を貴女の最愛に!」
「……はぁ?」
屑は何を言っているのだろう。
怒りが一瞬で沸点を超えた。
落ち着きなさい!
と珍しく焦った夫の声が聞こえるも、私は制御するつもりもない激情のままに騎士の名前を呼ぶ。
「ダイオニシアス・アッシュフィールド殿」
「はっ!」
ダイオニシアスは素早く私の前に跪《ひざまず》くと、胸に手をあてて頭を垂れた。
「この屑を即座に去勢して、死ぬまで国のためになされる一番厳しい労働に従事させてください。またバグウェル侯爵家は、店が屑のせいで支払った全ての金銭を負担、更に同額の慰謝料の支払いをさせてください。支払い完了次第、侯爵家を断絶させてください。乳児幼子がいるようでしたら、慈悲を与えてください」
「全てお言葉通りに手配いたします。断絶後、侯爵家の処遇は如何いたしましょうか?」
「断絶の際に家宅捜査的なものが行われるでしょう? 今まで逃げおおせてきた罪の証拠がうんざりするほど見つかると推測します。国の法に則って裁いてください」
「国の法に任せていただけるとのご寛恕、頭を垂れて感謝申し上げます。全ての手配が完了いたしましたならば、師匠を通じて報告させていただいてもよろしゅうございますか」
「ええ、お願いします。お店の方にも同じ報告をしてあげてください」
「承りました。私自ら必ず手配いたします! よし! 皆、行くぞ! 迅速にな!」
再度私の手を取り、恭しく手の甲に唇を寄せたダイオニシアスは、ノワールとランディーニへ腰を折って頭を下げた。
続いて見事な腹パンをしたあとで、容赦ない延髄への手刀で失神させた屑の足首をむんずと掴んで引き摺りながら、他の部下たちを引き連れて速やかに去って行った。
騎士たちと屑の姿が見えなくなって、限界まで見開いていた目をしばし閉じる。
怒りがゆるゆると静まっていく感覚に、大きく息を吐き出した。
同時に、夫の心配で仕方ないといった気配も落ち着いたようだ。
「ごめんね。頭に血が上っちゃった」
最愛の称号を持つ者ならば、己が寵愛する意味を知らぬなど許されないだろう。
そもそも私が夫以外の者を寵愛したならば、それは即時に称号を失うことだと思っている。
最愛=唯一なのだ。
何よりも代えがたいもの。
得がたいもの。
それが最愛。
屑はそんな基本中の基本も分からない愚か者だろう、と理解できても許せなかった。
夫以外を愛せと強要されるのが、私は全ての物事の中において一番嫌いなのだ。
「無理からぬことでございます」
「うむ。あんなに恥知らずな屑とは……以前迷惑を被った時分に、潰しておけば二度手間にならなんだわ」
「同感です」
私の激昂は当然だと思われているようで安心する。
親しいと思っていた人たちから、私の怒りを理不尽だと糾弾された過去が多くあったからだ。
どうにも私は、怒らない人、と思われる場面が多く、怒りを露わにすると、怒るなんて貴女らしくない、と酷く責められるのだ。
家族がそうだったし、友人、親友と名乗った人たちの中にも少なくない数がいた。
「あれで……妥当だよね?」
ノワールとランディーニへ向けた言葉だったが、店主が答えてくれた。
「妥当どころか……どう御礼を申し上げたら伝わるのか分からないほど、感謝しております。私どもにとっては最良以上でございます。ですが、その……御方様と最愛様への不敬に関しましては極刑でも許されぬことではないかと……」
やはり、あの思い出したくもない言葉は、激怒していい代物だったようだ。
夫という冷静に私を咎めてくれる人がいないので、付け上がってしまっていたのかと、少し心配だったのだ。
「私と主人を思いやってくださってありがとう。でも、ああいう輩には極刑よりも生かして、殺さずに長く罪を償ってもらうのが相応しいと思うの。少しでも役に立ってもらわないとね。死んだら、それで終わりでしょう?」
もしかしたら、反省をするかもしれない。
罪の自覚も、できるかもしれない。
侯爵家まで断罪が及んだので、これから屑は、実の親兄弟親戚縁者諸々に己を全否定されるだろう。
人を貶めるのが大好きな人間ほど、自分が貶められるのには弱いのだ。
己が犯してきた、数え切れない罪の意識に苛まれるようになれば御の字だが、あそこまで性根が腐っていると難しいかもしれない。
ただまぁ、多少なりとも被害者たちの溜飲は下がるだろう。
「屑の血縁は等しく腐っておったようじゃの。よくもまぁ、今まで逃げおおせてこられたものじゃ」
「王が腐れておりましたからね。主様の慈悲で正気に返ったのならば、バグウェル侯爵家の短くはない歴史もこれで終焉を迎えるでしょう。主様のなさったこの一件は、御方のなされた様々な案件同様にすばらしいものでございます」
胸を張って言われてしまうと面映ゆい。
ノワールは、私自身に価値はないと揺らがないのを、心配してくれているのだと思う。
最愛の称号を得ている者が卑屈な態度を取ってしまうと、屑のような輩を引き付ける可能性が高くなるからだ。
「ありがとう、ノワール。主人の名前を汚すことがなきよう、貴方たち忠誠を誓ってくれている者たちに相応しい主であるよう、これからも努めることにするわね」
「ほっほ! 主様は真面目でおられるのぅ。もっと肩の力を抜いて、我らに任せてくれないと困るのじゃよ。ほれ! ほれ」
「あー、そこはくすぐったいから! 弱いから!」
駄目ですよ、ランディーニ!
それ以上は、私が許しません。
首筋を羽根の先で優しくさすられて、恥ずかしい悲鳴を上げてしまったら、夫からの駄目出しが入った。
涙目でノワールを見詰めれば、慌ててランディーニに拳骨を食らわせる。
ランディーニは見事に目が回ってしまったようだ。
目の中にぐるぐるマークが浮かんでいる。
大丈夫だろうか。
「ノワール殿。よろしければ、こちらを……」
店主が恐る恐るペット用のキャリーバッグを差し出してくれた。
やわらかな皮で作られており、上部は中が覗けるように透明のシートで覆われている。
これが有名なスライムで作られた透明シートなら面白いのに……と思っていると、ノワールはバッグの中へランディーニを放り込んで、しっかりと施錠してしまった。
「そちらは、どうぞお納めくださいませ。バスに入っている最中、ペットが心配な高貴な方々が、目の届くところに置いておくようにと作られた完全防水のバッグにございます」
「では、有り難くいただきますね」
「……主様はいろいろあってお疲れです。今日はこれで帰宅いたします。受取は私が参りますがよろしゅうございますね?」
どうやらノワールもこの店の評価を改めてくれたようだ。
屑がいなくなって、地に落ちた評価はゆっくりと上がっていくだろう。
誠実に仕事をする人たちが、正当に評価されるようになったのは喜ばしいことだ。
「了解いたしました。次の御来訪を心よりお待ちしております」
店主にもノワールの評価が改まったのが伝わったのだろう。
眦からは涙が一筋伝っていた。
背後に頭を下げ続ける店長他、店員一同のプレッシャーを感じながら角を曲がる。
感謝自体は嬉しいのだが、度を超えると負担になるのが困りものだ。
何よりここには、夫がいない。
ふぅと小さく溜め息を吐けば、ノワールが心配そうに尋ねてきた。
『主様。体調が思わしくないのであれば、即時帰宅された方がよろしいかと思います』
「大丈夫です! ただこう……過度な好意というか謝意を少し負担に感じただけなの」
『御方は気にされなかったがのぅ……』
何時の間にか復活したらしいランディーニが呆れたような溜め息を吐く。
「ふふふ。さすがにあそこまで悪意というか邪意《じゃい》 がない感情に対して、無神経にはなれないかなぁ……あ! 勿論、主人が無神経って言いたいんじゃないわよ?」
夫は所謂王様気質の人だ。
周囲が自然と敬意を持って頭を垂れる。
それだけの問題を片付けてきたという実績もあるが、それだけではないのが恐ろしい。
世の中には、存在するのだ。
そこにいるだけで、周囲を完全に支配できる人間というものが。
『大丈夫じゃ、我らとてそんな誤解はしないぞ。ただ御方の隣に立つのであれば奥方も、もう少しこう……』
『そういうのを余計なお世話というのですよ、ランディーニ。御方も主様も納得なさっての今の関係でしょう。貴女がどうこう言う権利はありません』
『むぅ。だが、我らが言わねば誰も言わぬだろう?』
そうでもない。
ランディーニのように、私たちの関係がどこまでも健全で幸せなものであるように、と心を砕いたアドバイスとは真逆の意味で、同じ内容を語る輩はむしろ多いくらいだ。
「……どうせなら、主人と一緒にいるときにお願いしたいな? 私の考えも主人の考えもちゃんと聞いてからじゃないと、平等ではないでしょう?」
『それは……その通りじゃのぅ……御方は、何時こちらに来られるのじゃ?』
来ると信じて疑わない口調。
だが、実際どうだろう。
夫はこちらの世界へ来るだろうか。
来るとしたらそれは、夫の考える、私が異世界ですべきことが全て済んでからのような気がする。
「分からないわ。ただ……随分先になるとは思います」
『御方がいらっしゃいましたら、考えればよろしいかと。主様、今日の夕食は外食にいたしませんか?』
「それがいいかもね……あぁ、良い匂い……」
先導するランディーニについて行けば、何時の間にか屋台が並んでいる通りに足を踏み入れていた。
いろいろな種類の、胃を直撃する匂いが漂っている。
お腹がきゅるるるっと派手な音を立てた。
『随分とお腹を空かせておられるようじゃ。そうすると最初はスープ系が無難かのぅ』
『ホットワインなどもございますよ?』
「アルコールは空きっ腹にきちゃいそうだから、お腹に何かを入れてから飲みたいかな」
フルコースや懐石の食前酒だけでも、体調次第では酔っ払ってしまう程度には弱い。
ちなみに夫はザルを超えたワクだ。
飲みたい物を頼んで残りは飲んでもらうという荒技が使えるので、とても有り難いと常々思っている。
今隣にいないのがとても残念だ。
『うーむ。スープ系は三種類じゃの』
『オニオーングラタンスープ、魚介のトマトゥスープ、豚汁になります』
二人ともこの場にいるだけで、屋台で何が売られているか感知できるようだ。
匂いだろうか。
人である私とは比べようがないほど鼻が利くとは思うが、たぶんそれだけではないに違いない。
「そうなの? 教会の炊き出しクエストで作ったとき、シスターが『のぶたんの具沢山スープ』って表現していたから、豚汁って言葉はないんだと思っていたんだけど……」
『御方じゃったか?』
『いいえ。確か……地に足のついた転生者が御方に依頼して作らせた物……だったはずですね』
転生者!
いろいろと聞いてみたい気がしたが、どうやら男性らしいので止めておこう……。
夫の勘気が恐ろしい。
「豚汁も良いけど……オニオーングラタンスープが食べたいかな」
たまねぎを炒めるのが手間なので、自分ではあまり作らない。
私が大好きな料理なので夫が頻繁に作ってくれるが、時々無性に違う味のオニオングラタンスープが飲みたくなるのだ。
今の所、夫の作るオニオングラタンスープを超える物には出会えていないけれど、異世界ならもしかすると、遭遇できるかもしれない。
『では、こちらでお待ちくださいませ。ランディーニ?』
『留守は任されたぞ!』
不安ですが……と目を細めたノワールが、綺麗にメイド服を翻して姿を消す。
目の届く場所にはないようだった。