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──それから翌日の昼には荷物をまとめて旅支度を済ませた。
出発の直前、少々の手間をかけて家と周辺を囲むような大きい魔法陣を描き、魔力を込めて結界を張り、ほんの少しの休憩を挟む。椅子代わりにしていた丸太に腰を掛けてコーヒーを飲み、ふと近くに気配を感じて見上げた。
「ん……ストラシアか。手紙をもう届けたんだな」
彼女の傍の木にとまり、首を捻ってじっと見つめる。
「ああ、この結界の中には入るなよ。全部燃やすんだ」
師と共に暮らした小さな家。思い出と研究のすべてが詰まった家。それらに別れを告げ、誰かが彼女の大事に積み重ねてきた、研究の成果である多くのものを悪用されないために火を放った。結界は他に燃え移らせない策であり、何もかもが焼き尽くされるまで解かれることはない。
「私がこれからどうするのかって?」
ストラシアが傍に降りてきて、彼女の顔を心配そうに覗く。
「まずは首都から離れた町へ行く。魔物が棲みついている洞窟とか危険な場所が近くて、周辺の村の護衛任務なども受けているそうだ。生活の拠点には悪くないと思うんだが……フッ、もしプリスコット卿が知れば不安がるんだろうな」
トランクひとつを持って、燃え盛る思い出の家を背に去っていく。
大賢者としてのヒルデガルドは死んだ。これからはヒルデガルド・ベルリオーズというひとりの冒険者として生きていく。
森を遠く離れ、一度は首都へ向かった。まっさきに足を運んだのは神殿だ。人々の貴重品などを一定期間だけ預かってくれるので、ヒルデガルドも頻繁に利用していたが、預かっている間になんらかの理由で死亡した場合は彼らへの寄付とみなされるため、早いうちに必要な分を回収しておこうとした。
「ようこそ、アルマナ神殿へ。初めてみる方ですね?」
はいってすぐに神官に声をかけられる。
「ああ。ヒルデガルド・イェンネマンの代理で彼女の資産の回収に来た。……ということにしておいてくれないか、ヨナス」
ヨナスと呼ばれた若い神官がぎょっとした。
「えっ!? あっ、ヒルデガルドさん? 髪の色が違ったので気付きませんでした。代理だなんてどういう話ですか、何か複雑な事情があるんですか?」
彼女はこくりと頷き、誰も耳を傾けていないか警戒しながら。
「もうすぐ私は死んだことになる。これから違う人間として生きるから、その前にできるだけ預けているものを回収しておきたいんだ。出来るだろう?」
「ええ、まあ……代理人でしたら本人の署名がある委任状か、類する私物を預かってきているのなら書類をご用意できます。筆跡の鑑定も問題ないでしょう。ひとまずこちらへ来て下さい、あまり人目に触れるのも良くないでしょうから」
来客用の小さな応接室へ通される。ヒルデガルドはそこでトランクの中から一枚の丸めた羊皮紙を取り出して渡した。
「私の署名が入った委任状だ。鑑定されても問題ないし、この羊皮紙には私の指紋も多くある。これがあれば構わないんだよな、ヨナス」
「もちろん。ですが、残念です。その様子だと首都から遠く離れてしまうんですよね。気軽にこうして神殿にいらっしゃって会えなくなるのは寂しく思います。ヒルデガルドさんとのお話は楽しかったので……」
ヨナスは神官職に就く以前からヒルデガルドを知っている。勇者クレイと共に旅をした大賢者。人々の中で強い魔物に打ち勝てるほどの魔導師になれるのは、数年の間に片手で数えられるほどしかいない。
だから憧れていた。初めて出会ったとき『魔導師になれなくても、君には出来ることがあるだろう』と神官になることを勧められてから、ずっと。自分よりも若いのに、なぜこれほどまでに美しい考え方ができるのだろう? と。
「いつも僕が苦しいときには優しい言葉をたくさん掛けて頂きました。もし何か困りごとがあればいつでもお手紙を下さい。ぼくに出来ることでしたら、どんなことでも力を貸してあげられます。……ではしばしお待ちを」
委任状を持ってヒルデガルドの預けていた貴重品を取りに出て行く。ひとり残された彼女も、少しだけ残念そうに前髪の毛先を指で弄びながらため息をつく。自分で決めたことだとはいえ、数少ない友人との別れには寂しさを感じた。
(……今頃は号外でも広まっている頃か? もう少しくらいゆっくり話していたかったが、あまり時間はなさそうだ。委任状の確認はヨナス以外も行うだろうし、死んだ人間の委任状を持った奴が神殿をいつまでもうろついているのはマズい)
フードを被り込み、素顔を隠す。しばらくして戻って来たヨナスから小さな布袋にぎっちり詰まった硬貨を受け取って即座に出発しようとした。彼が用意した茶菓子には手も付けず。
「もう行かれるんですか、ヒルデガルドさん」
「悪いな、長居してやれなくて」
「いえ。また会えるのを楽しみにしています」
部屋を出るとき、ヒルデガルドは振り返って優しく微笑み──。
「私もだ。いずれまた会おう」