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「アーウィン!」
膝をついたその背中に、細いナイフが深々と突き刺さっていた。ナイフは真っ黒に焼けこげ、うっすらと煙を上げる。
カツン。大聖堂に澱む闇の中、足音が響いた。カツン。その人は三本の銀のナイフを手に、ゆっくりと近づいてくる。カツン。
「お、かあさ……」
「忘れたの?レナはあなたのものじゃないのよ。そういう”約束”だったでしょう?」
「……………」
そこに立っていたのは、祭壇に寝かされていたはずのお母さんだった。お母さん?違う!あの時、母親と名乗ったのはいったい誰なの?私は、この人は……!!いったい誰なの!
痙攣する震えが全身を襲う。自分で自分の体がコントロールできない。傍らでアーウィンが血を流しているのに、それを助け起こすことさえできずただ震えていた。
「こうなると思って、わざわざ女の子に造り上げたのに」
彼は自分の肩越しに女を見返すが、何も言わない。
「生意気な目ね。そういう目は嫌いじゃないけれど」
女は少し目を伏せた。
「思い通りにならないものは嫌いだわ」
白い手が振り上げられたのと同時に、アーウィンの肩に二本目ナイフが突き刺さる。同時にじゅわっと音を立てて、ナイフが黒く変色した。嫌な臭いの煙が立ち上がる。
「!!」
「アルブム銀で作られたナイフよ。お前たち冥使が最も嫌う金属ね。ナイフ二本で、もう動けないでしょう?」
「…………」
「思い上がらないことね。私はいつだってお前を狩れるのよ。ここで狩られたくなければ、レナの催眠をかけ直しなさい」
彼女は顎をあげて命令した。
墓土の匂い。重い闇。突然開かれた世界。造られた『私』。突然、それらは全て繋がった。私は『憶えて』いる。
「どうし……」
声がうまく出せないのは、喉が裂けているからだけじゃない。歯がカチカチと鳴って、うまく喋れない。
「どうして……どうして!?」
どうしてアーウィンが刺されなくちゃいけないの。どうしてこんなことが起きてるの。どうして私は私でなかった頃を憶えているの。どうして私はあなたがお母さんでないことを知ってるの!!
力が……抜けていく。血が抜けていく。私の悲鳴に近い絶叫を受けて、その人はただ微笑んだ。大好きだった青い目が、冷たく輝く。不意に押さえがたい衝動が、お腹の底から湧き上がってきた。コワイ……。痙攣が止まらない!
「……行きなさい」
下から小さな声がふる。膝をついたまま、アーウィンが吐息で告げた。
「道を選びなさい……あなたが選んでこその道だ。あなたが何を選ぶのか、私はそれを知りたい」
私が選ぶもの?
「ああ、レナ……」
その人は両手を広げて、困った顔で微笑む。
「ごめんね、びっくりさせちゃったわね。でも大丈夫よ。何も怖いことなんてないの。今説明するから……こちらへいらっしゃい」
カツンと床が鳴って、その人が一歩私へ踏み出した。イヤダ……。
「どうしたの?さあ……」
カツン。クルナ……!
「レナ……」
コワイ!キライ!
「行けッ!!」
突然痙攣が治まった。血の長れる喉を押さえながら、素早く聖堂内を見渡す。
「!」
祭壇の奥に小さな扉があるのが見えた。あの扉!でもあそこに行くためには、彼女をやり過ごして横を通らなければならない。それに、あの扉がどこに繋がっているのかも分からない。開いているだろうか、行き止まりじゃないだろうか。ああ、でも迷ってる暇なんてない!!
「ねえ、レナ。喉の傷をお母さんに見せ……」
私へ踏み出そうとした女が、不意によろけた。
「!」
見ると伸びたアーウィンの舌が、彼女の足に絡みついている。
「!」
今しかない!!
私はその機を逃さず、転がるように女の脇を走り抜けた。走り抜けざま、床に転がっていた銀の銃をさらう。
「レナ!このッ……!」
走りながら振り向くと、女がナイフを振り上げていた。振り下ろされた刃が彼の長い舌を断ち切る。アーウィンはその場に倒れ、切断された舌から大量の血が噴き出した。一瞬、足が止まりそうになる。しかし振り向いた女の形相が、私を奮い立たせた。
全てを振り切って、奥の扉へ飛び込む。扉の向こうには、螺旋階段が上へ上へと伸びていた。
「待ちなさい、レナ!」
背後から足音が迫る。上へ!!
上りながら、影だった時の思考が巡る。
ーーさあ、血を啜れ、私のために。
ーー誰かが”影”を無理やり狂わせている
れな
ーーあの子を呼ぶのよ、そして融合を。
ーー央魔の血を得た者は強大な力を得る
れな
ーー血を!もっと血を!若さを!命を!力を!栄光を!!央魔の血の奇跡を!!
レナ……タスケテ……。
必死の思いで階段を駆け上がると、ヒョオと風が吹いた。塔の上は、鐘つき堂になっている。真ん中に青緑色の重そうな鐘が吊られていて、大きくくり抜かれた窓と柱が屋根を支えていた。壁は腰くらいの高さまでしか無く、うっかり乗り出せば落ちてしまいそう。
黒い空は東の方が藍色へ変わり始めていた。夜明けが近い……。
「怖がらなくていいのよ……」
「!!」
ビクッと振り返ると、私に遅れてお母さんがーー女が階段から頭を出した。ぎらつく目と優しい声が、不協和音を奏でている。
「どうし、て……」
私の髪とスカートを風がなぶり、掠れる声を掻き消していった。フラッシュバックのように蘇った、見たことないはずの光景と声が、私の中の温かい思い出を急に蝕んでいく。
「どうしてなの、お母さん!」
口に出してみると、それは不思議な違和感が伴っていた。気づいた時、私はもう在った。じゃあ、お母さんってーー何?
その女は、あなたを生んでなどいない……。
「……あなたは……」
耐えきれなくて叫ぶ。
「あなたはいったい誰なの!!」
私、変なこと言ってる。お母さんはお母さん以外の何者でもないはずなのに。だけど、頭の中に甦る声が!光景が!女はスッと背筋を伸ばした。
「私はアーシュラ。聖女の称号を受けた最高の祓い手……」
「祓い手……フレディと同じ?」
その名前を聞いて、微笑んだ唇の端が歪む。
「そうね。でもあれは入蝕されて死んだのでしょ。情けないこと!オーゼンナートも落ちたものね」
ショックで何も返せなかった。まるで……フレディが死んだのが嬉しいみたいに……。
「私は聖女。救い主と称されたもの。オーゼンナートの直系とて敵ではないわ」
陶然とした表情の中に、傲慢さが煌めく。
「そ……んなひとが……どうして……?」
どうしてここに?どうしてこんなことを?私の問いに、アーシュラはふと空の彼方を見上げた。
「百四十年ほど前。まだ私が”村”での地位に満足していた頃、私は偶然にも央魔の誕生に立ち会ったの」
唐突な話題の変換に戸惑う。それに百四十年前って?
「最初わね、ちゃんと村へ連れて帰るつもりだったのよ。央魔は狩ってはいけないと決められていたから。だけど途中で事故に遭って、彼女怪我をしたの。その血を見た時」
空を彷徨っていた視線が、私に戻った。その目は大きく見開かれている。
「私は天啓を得たの」
天啓?
「央魔は希少な存在よ。その誕生に立ち会うなんて、滅多にない。でも、私はそこに居合わせた。それには『意味』があるわ。そう思わない?」
「…………」
口調は穏やかなのに、その目は異様に迫力があった。その気配に圧され、私は何も答えられない。
「選ばれた私には、その恩恵に預かる権利があるわ。だから」
女は艶やかな笑みを浮かべた。
「それを受け取ることにしたのよ」
「?……それってどういう意味」
血を!もっと血を!央魔の血を!
脳天から氷の針が差し込まれた気がする。目の前の迷いのない美しすぎる微笑み。一つの想像に、冷たい汗がじわりと浮かんだ。
「ま、まさか……」
ソノ血ヲ得タ者ハ 強大ナ力ヲ得ル
怪我をした産まれたての央魔。血を流していたという。
ソノ女ハ アナタヲ生ンデナド イナイ
「央魔の血を……!」
央魔ノ血ヲ 吸イ尽クシテ 村ヲ追イ出サレタ 女
その人はただ笑っていた。その笑顔には、何の曇りもない。不自然なまでの清廉さ。
押し付けた低い壁が、ぎりぎりと腰を擦って痛い。それでも、背中を押しつけずにはいられなかった。理解してしまった。この人が欲しかったのは、央魔となった私の『血』。
込み上げる震えが走る。恐怖?いいえ、これは絶望……。
「私も……殺すの?昔殺したその子みたいに……!殺して、血を……!!」
そのためだけに、生かされていた?愛情だと思っていたものは、全部嘘?家畜のように飼育されていただけ?
力が抜けた。背中で壁をすりながら、その場に座り込む。じゃあ……。知らず、涙が溢れた。私のやってきたことは何だったの。必死で守ろうとした世界は、自分は……。なんて無意味だったの。
「いいえ、殺したりしないわ」
思いがけず、穏やかな声が落ちてきた。彼女は膝をつくと、私の頬を両手で包み込む。
「ばかね。そんなことするはずないじゃない」
その体温は悲しいほど温かかった。その時、初めて自分の体温が低いことに気づく。ああ、私はヒトでは無くなった……。
「私にとって、あなたは特別なの。偶然出会ったあの子とは違う」
「特別?」
「そうよ。あなたは私のたった一人の娘。私が血を与え、造り出した……私が望んだ、私の子。私たちは家族なの。そうでしょう?」
「家族……」
わたしたちはかぞくなの。そう言った女の人はもう知らない誰かじゃなくて、私のよく知っている『お母さん』だ。くらっとデジャヴを覚える。ああ、これはあの白い闇から抜けた時と同じ。幸福な気持ち。
そうだ、あの時私は間違いなく幸福だった。新しい世界は晴れやかで、命に溢れている。抱きしめてくれる温かい腕があった。私はこの世界に歓迎されて、迎えられていたのだと信じた。分からない。何が本当で、何が嘘なのか。何が正しくて何が間違いなのか。
まあ、また熱があるのね。お薬飲んで寝ましょうね。
「あなたは私の娘。私に力を与えてくれる大切な存在」
お母さんの手が、私の頬を優しく撫でる。いつもと同じように。誰か教えて。正しいことって何?私は何を選ぶべきなの?
おみやげよ。新しいご本。ほら、絵がとっても素敵でしょう?きっとレナが気に入ると思って。
「分かるでしょう。お母さんにはあなたが必要なの……」
彼女の体温が包み込んでいく。ポロポロと涙が溢れた。人で無くなってしまっても、このままでいられる?あなたなら、このまま居させてくれる?
「ただねえ、少し必要な時にほんの少しだけ血を分けてくれればいいの。それだけでいいのよ」
おかあさん。おかあさん。胸の中で繰り返す。ああ、何でこの言葉は美しいの。まるで、ヒトの血のように甘く切ない。
「あなたは何にも心配しなくていいの。お母さんに任せておけば、何もかもうまくいくわ。今まで通り、二人で生きていきましょう」
そう言って、お母さんは私に手を差し伸べた。