翌日は朝から語学学校に向かった。かといって、健太は熱心に勉強しようと改心したわけではない。教室ではなく、キャンパスの一角にあるカフェテリアにいる。昼休みのベルが鳴ると、四、五十脚ほどの円卓が並ぶフロアに世界中から来た若者が散らばった。三階まで吹き抜けの高天井を、ざわめきが支えている。誰もいなかった健太のテーブルには、メキシコ人とアジア人の混成グループがやってきて座った。南側一面に広がる窓には、ダウンタウンの高層ビル群が、白くよどんだ大気の中に大きく浮かび上がっている。差し込む冬の日差しは、壁際にいる健太の手前まで引き伸ばされ、目の前の若者達の笑い声を照らし出している。うつむいた健太のツヤのない長い髪は影の側で垂れていた。
昼休み終了のベルがけたたましく鳴り響く。アディオスやらチャオやら、各国のじゃあまたの声が飛び交う中、人波が出口に集中する。前にいたグループも消えた。ざわめきも消えた。残り余った空間には、レジのおばさん達の会話が広がった。 健太は携帯電話をポケットから取り出し、バイト先の上司に、生活苦のため近々帰国するかもしれませんと伝えた。上司は、お金のことなら個人的に少し工面してやってもいい、同じ日本人なんだから助け合いだと言ってくれたが、そうすると今度は別な理由が必要になってくる。あいまいな口調で電話を切った。足元の割れたタイルと目が合った。健太は足で破片を集める。椅子は毎日、上に乗る人の重圧に耐え、疲労は人目に付かない足元に蓄積され、ついにタイルが砕けたのだろう。まだ今ならば、かけらを集めてつなぎ合わせて、元の平面に戻すことは可能かもしれない。しかし表面のみ元の状態に戻したところで、未来はあるのだろうか。小さな延命で、ひとときの復興を幻想することはできるかもしれない。苦しかった過去の忘れたふりも、しばらくは続けられるかもしれない。皮肉にも、そうやって亀裂を無視すればするほど、さらに大きな亀裂が生じる。健太は窓に視線を移すと、空が夕焼け色になっていた。そろそろ、今夜の時間のつぶし方を考えておかねばなるまい。雲がちぎれていくのを追ううちに、近くのバーで飲むことを思い立った。きついマティーニをちびちびやれば、一時間半は持つだろう。カウンターの隣に誰か話し相手でもできれば、案外時間は早く流れるかもしれない……学費の催促状と今月の車の修理代を思い出すまでの間は。
「君は日本人だね?」 頭上の方から突然、声がした。フロアを見回すと、他には日差しの中で見つめあうカップルが一組いるだけだった。店の人が痺れを切らして注意に来たのだろう、何しろここ一週間、授業も出ずに夕方までここにいる。健太は疲れ切った表情で椅子を動かし、向きを変えた。しかし、そこにいたのは店員ではなかった。代わりに、メガネをかけた少年が人懐こい笑顔を浮かべて立っている。健太はあごの無精髭を指で二三度なぞると、昼頃向かいにいたグループの中でひときわはしゃいでいた、アジア人の顔に思い当たった。まだあどけなさが残る色白の顔、ひょろっとしたモヤシ体型から、中学生か、いいところ高校生くらいだろう。もし仮に高校一年生くらいだとしても、健太より十歳は年下になる。モンゴロイドの顔つき、その国の学生が最近よくしている楕円形のメガネフレーム、英語のイントネーションから、どこの出身者かは大体推測がついた。「君は日本人だったら、ツヨシを知ってるね?」少年は健太を、無邪気な子供の瞳で見つめている。健太は訝しげな表情を返した。 会ったばかりの二言目にそんな話をされたって困る。こっちはノーテンキな坊やの相手をしている場合じゃないんだ。君は第一、まだ恋の終わりを経験したことがないだろう…… 少年には、健太のそんな内心が伝わった様子は微塵もなかった。代わりに、巨大な高層ビル群を見上げて目を細めた。「ツヨシはいい人なんだ……」
カフェテリアが閉店になると、健太はフェスティバに乗って、再び大都会の迷宮を糸の切れた凧となってさまよった。マイクとスージーの家へは夜更け過ぎに戻った。