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太陽が昼を閉じるべく大きく傾き、赤い光が船底の形に似た屋根を染めている。一番星の冴えた輝きに気づく者は紊乱の街にいない。夕間暮れに秋の風はさらに冷え、一日の勤めを終えた人々の心に忍び入ろうとする。
しかしむしろ人通りの増えた道を、二人は宿を探して彷徨っていた。
「さっきは助けてくれてありがとうございます。本当にうっかりしていました。最たる教敵という自覚を……」ユカリは深いため息をつく。「自覚を持たなくてはいけないんですね」
「ワタシだってユカリを連行されちゃ困るからね。それに最たる教敵のことなんて気にしなくて良いよ。大げさな言い方をしてるだけ。そんな認定があろうがなかろうが、魔導書を収集している以上救済機構との対立は必定なんだから」
「そうですね」あまり慰めになっていなかったが、本人は慰めているつもりのようなのでユカリは素直にその気持ちを受け取ることにした。「ところで、虚ろ名って何ですか?」
ユカリが虚ろ名とやらに相応しくないのでエイカに変えた、ということになったのはユカリにも分かった。
「偽名だよ」とベルニージュは答える。
道行く人々はまるで行く当てのない影のようだが、酒場や食堂、社交場の喧騒は外にまで届いている。
グラタード率いる焚書官たちやサクリフは、引き続き酒宴という名の情報収集を行うというので別れることとなった。
ユカリは首をひねって言う。「偽名だってことは分かりますけど、単なる偽名だったらむしろ怪しまれますよ。でもグラタードさんは納得している様子でした」
「そうだね」ベルニージュは微笑みを浮かべて答える。「虚ろ名というのは、本人の都合以外で名を名乗れない、理由すら言えないなんて時に使う偽名だよ。名を呪われた時とかね。結局のところ要するに単なる偽名なんだけど。偽名を名乗る正当な理由がありますよ、って表明になるわけ。まあ、そう思わせるために虚ろ名だと主張する奴もいるけどさ」
名を呪われる、その得も言われぬ驚異をユカリは気味悪く感じる。
「名前を呪われるって、何とも怖ろしいですね。具体的にどうなるんですか? 名前を呪われると」
「そうだなあ。簡単なのだと、名乗れなくなるとか、名を呼ばれなくなるだとか。あるいは名を名乗ること自体が別の呪いの引き金になる、だとかだね」
名を呪われたわけでもないのに同じような状況になっていることに気づき、やるせなさを感じる。
ユカリは大きくため息をつく。「なぜ素直に名乗ってしまったのか。過去の私が呪わしいです」
「だから気にすることないってば。最たる教敵認定されてる人物なんて一般信徒はほとんど知らないだろうし。とはいえ救済機構の僧侶の前でだけはエイカでいることだね」
ただでさえ、ユカリという名は本名ではなく、魔導書に記載されていた前世の名前、つまるところ偽名だというのに。その偽名を名乗れず、新たな偽名を使わなくてはならないとは。
「はい。気をつけます。ぼろを出さないように気をつけないと」
「ところでエイカって誰? ユカリに比べるとさして珍しくもない名前だけど、有名な悪人なんていたっけ?」
「産みの母親です。悪い人ではないと思いますけど、自分勝手な人なんです」
「ふうん。お互い母親には苦労させられてるんだね」と言ったきりベルニージュは黙った。
沈黙のまま行く先に二人は宿屋を見つけ、部屋を一つ借りようとしたが満室だった。頬のたるんだ宿屋の主曰く、寝台が並んでいるだけの大部屋はあるという。
「もちろん、女性にはお勧めできませんがね」と最後に付け加える。
諦めて宿を出ようとした時、入れ違いに入ろうとした女に二人は見覚えがあった。女はびくりと飛び退き、しかし二人の顔に気づいて驚いていた。
「ああ! 先ほどは申し訳ありません」それは焚書官たちに絡まれていた若い女だった。砂埃がある程度払われ、長衣の白が少し取り戻されていた。襟首の辺りに鱗を並べたような模様の刺繍が施されている。「気が動転して、逃げ出してしまいました。感謝の言葉の一つも申し述べられず、申し訳のしようもありません」
「そんなこと。でも、ちょうど良かったです!」ユカリは子を慰める母のように微笑む。「実はあなたに尋ねたいことがあって、明日にでも探そうと思っていたんです。良ければお話を聞いていただけませんか?」
「それはもう、私でよければ。ちょうどこの宿でお部屋を借りていますから。そちらでお話ししましょう」
三人でその女の部屋に向かおうとした時、宿屋の主に止められる。
「待ちなって。勝手に連れを増やされちゃ困るよ。気高き流れさん。あんたの部屋は二人部屋で、受け取った金も二人分。しかし三人泊まるならもう一人分払ってもらわなきゃあ」
「ああ、いえ、私たちは少しお邪魔するだけです」とユカリは否む。「宿泊は別の宿を探しますよ」
「それなら私の部屋を使ってくださっても構いませんよ」ビルオネはユカリたちに微笑みかける。「三人は狭いかもしれませんが」
ユカリとベルニージュは顔を見合わせる。お互いに何も問題ない。
「それは、有り難いです。私たちは床にでも寝るので、部屋を貸してくださるだけで、とても助かります」そう言ってユカリは宿屋の主をちらと見る。
「うちは構いませんがね」宿屋の主は三人の客を見渡す。「ただし、さっきも言ったようにあの部屋は二人部屋ですが、三人で宿泊するというのなら、もう一人分の代金はいただきますよ」
そういうわけでユカリとベルニージュはビルオネの部屋に一泊することになった。
埃っぽい部屋は二台の寝台の他には何もなかった。二階にも関わらず窓には鉄格子がはめられ、出入りの扉には三つもの閂が用意されている。この部屋を見ただけでもこの街の治安が推し量れるというものだ。
ビルオネは部屋に入るとしっかり鉄格子がはまっていることを確認し、二人を招き入れると三つの閂でしっかり閉じた。それがこの街でのありかたというものなのか、ビルオネ本人の習癖なのかは分からない。
ユカリはビルオネに促されるまま片方の寝台に座り、ついと伸びをしながら寝転がって壁に頭をぶつけた。二人で一つの寝台を使うのは難しそうだ。
「早速ですけどビルオネさん。平和の使者、メイゲル氏について何かご存知ですね?」
ベルニージュがきっぱりそう言うと、ビルオネは向かいの寝台に座り、壁にもたれ掛かって膝を抱える。
「ええ、もちろんです。私は信徒の一人なのですから。でもなぜ? 聞きたかったのはメイゲル様について、ということですか?」
ユカリは身を起こして背筋を正し、説明する。「奇跡的な力を持っていると噂に聞いてきたんです。いったいどのような力なのか知りたくて」
それが当然だろうとでも言うようにビルオネは得意そうな表情でゆっくりと頷いた。
「メイゲル様の御力は本当に素晴らしいものです」ビルオネの潤んだ瞳には崇敬が見て取れる。「彼の行くところ、向かうところではありとあらゆる争いが鎮まってしまうのです。人々の振り上げた拳は誰に触れることもなく、剣は鞘から出てこなくなるのです。そして最後には人々の心から闘争心とでもいうべきものが消え去ります。その御力でもって世界に平和をもたらすべく旅をしておられるのです。私もまた何度もそのような奇跡の光景に見え、彼の教えを学ぶことに致しました」
いかにも魔導書の力だ、とユカリもベルニージュも確信を持った。
グラタード率いる焚書官たちは平和の使者について興味がなさそうだった。おそらく今のところ魔導書とは結びつけていない。だとしてもグラタードに先んじられれば察する可能性も高い。魔女の牢獄へ挑まなくては、魔導書を手に入れられないかもしれない、とユカリたちは心の内に覚悟した。
「それではメイゲルさんが魔女の牢獄に入ったのは」ユカリは鉄格子に切り分けられた窓の外を見る。そこからは魔女の牢獄と呼ばれる岩塊が見えなかった。「伝承にあるという牢獄の中にある街、人々を救うため、ですね?」
それはいかにも奇跡的な力を持つ野心的な人物が抱きそうな志だ。
ビルオネは頷き、肯ずる。「はい。メイゲル様の奇跡の御力は人間以外の動物にも及びます。獣の牙も爪も何者も傷つけることはできなくなります。当然怪物とてメイゲル様を傷つけることは出来ないでしょう」
「あ!」と大きな声を出し、ユカリは注目を集めてしまって恥ずかしそうに照れ笑いする。言い訳するようにベルニージュとビルオネに語る。「ずっと気になってた違和感の正体に気づきました。その、おかしいと思うんです、この街や魔女の牢獄に挑む人々って」
「言葉を選んだ方が良いかも」ベルニージュはビルオネの方をちらと見る。
「ああ、違うんです。そういう意味じゃなくて」ユカリはビルオネの方をちらと見るが、特に気にしている様子はない。「その……、だって誰一人戻って来ないって話じゃないですか? 怪物か、そうでなくても何かの危険があるのは間違いないと思います。でも、それでも挑む動機はどこから来るんですか?」
「だからそれは」ベルニージュは指折り数える。「メイゲル氏や救済機構のような慈善行為か、サクリフのように名声を求める人、それと金銀財宝があるって話、だったじゃない?」
「それですよ。誰も、誰一人戻って来ないのに何でそんなものがあるって確信を持ってるんですか? 古代の伝承ですよ。まことしやかに語り継がれてきたのでしょうけど、何一つ確証はないんですよ。怪物も囚われた人々も財宝も」
「そこまでおかしいかな。そういう馬鹿がいたっていいじゃない」
「ベルニージュさんの方こそ言葉を選んで」とユカリは強めに囁く。
ちらとビルオネの方を見るがやはり気に障った様子はない。
「いえ、別にそれはおかしなことではありませんよ」ビルオネは慣れた様子で否む。「確かに魔女の牢獄に入って戻ってくる者はいませんが、魔女の牢獄から出てくるものはいるのです」
その言葉に驚いたのはユカリだけではなくベルニージュもだった。
ビルオネが続ける。「魔女の牢獄の中にあるという街の人々は数年おきに怪物に生贄を捧げるそうです。しかし中には怪物の目を掻い潜って牢獄から脱出する者がいるのです。脱出者たちはこの街で保護され、魔女の牢獄の内部について話を聞いた後は、出来る限り望み通りの人生を生きられるようにする、それがこの無法の街のほとんど唯一と言っていい古くから守られている掟なのです」
「なるほど」とベルニージュは感心して言う。「その証言が単なる古い伝承を補強しているんですね」
「ええ、その通りです」ビルオネは頷く。「証言はどれもほぼ一致しています。細かなことは多少の記憶違いがあるようですが、怪物がいて、街があり、数百人の人々があの中で暮らしているそうですよ。財宝に関してはありふれたものなので、彼らにとっては特に大きな価値を感じていないそうですが」
「言われてみれば私たち、サクリフさんとか焚書官とか、街の外から来た人としかまだ話をしてなかったですね」とユカリはベルニージュに言って、ビルオネに目を向ける。「じゃあ、伝承というより事実なんですね、この街の人にとっては」
「ええ、そうです」ビルオネは皮肉っぽく笑う。「何せこの街は魔女の牢獄に挑む人々相手の商売で成り立っているようなものですから」