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私は歩いていた。
確かにあるいていた。
一歩一歩を確かめるように、足元を凝視し、先を見ず、途方もなく歩いていた。
疲れているわけではない。 怪我を負っているわけでもない。
しかし健常ではなく、かと言って負傷している訳でもない。
私は間違いなく歩いていた。
理由なく。
掻き立てられる衝動もなく。
けれども立ち止まることが許されないように。 それが当たり前のように。
私は一歩一歩、歩いていた。
「もし」
以前、私は街中でそのように声をかけられた。
「もし、よろしいですか」
痩せ細った蒼白い顔の男は私の顔を見ながら声をかけてきた。
「はあ。何かお困りごとでも」
当たり障りのないよう答えたが、側からみれば『つげ義春』の漫画よりの登場人物然としていたかも知れない。
「お困りではございません。あなたに声を応えて頂くだけで良かったのです」
「はあ。何か目的でも?」
私がそう応えると、蒼白い顔の男は何も応えることなく、跋扈を引きながら渋谷のスクランブル交差点を引き返して行った。
「…何やら寒くなってきた」
12月に入ったころであった。
「もし」
何やらおかしなオンナが声を掛けてきた。
「もし。よろしいですか」
「何でしょう。お困りですか」
右手と左足に包帯を巻いたオンナが右目を痙攣させながら声を掛けてきた。
仕事の都合で来た、東北の辺鄙な場所だ。 左右には畦。水田はヒビ割れている。
「………」
オンナは黙っている。 何故この場所で声を掛けてきたのか。
「早急でなければ失礼するが」
「いえ、不愉快の念をおかけしました。それでは」
強い風の吹く日であった。
オンナは開ける着物を押さえ、風上へと去っていった。
「もし、もし」
「…はあ。これはこれは。御仁が小生に御用ですか」
緩い風が吹く浜に、齢80ほどの老人が申してきた。
「何も言うことはありません。また近いうちに」
間髪入れずそう返す老人は、古びた杖で地面を突き、ゆっくりと帰っていった。
次は老婆か、少女か少年か。
強い日差しが照りつける原野の中、私は新聞を広げ、何の気なしに耽っていた。
「もし」
来た。
齢30ほどか。 声の高い男のようであり、声の低いオンナのようでもある。
顔も見ず、声からも人物を想像難い者に、私はこう応えた。
「私は季節ごとに見知らぬ者に声を掛けられた。あなたは今私に声を掛けた。あなたは何者で何用であるか」
しばらく返答はなく、余命幾ばくかの蝉の声が合唱している様子が、いつもよりも鮮明に轟いていた。
声の主はこう応える。
「勿体無いことです。勿体無い」
数珠を持った手を擦り合わせる音がする。 ひどく耳障りだ。
「何か用があるのかと聞いている」
杖を持った左手を振り上げ振り返る。
「畏れ多い。私は何も仰せませぬ」
「……」
何故応えぬのか。
何故去ってゆくのか。
春夏秋冬と。
振り上げた左手は空を切っている。
気付けば私は片目のみである。
手は短い。脚も短い。
青年も淑女も、老人もいない。
今はただ、前しか見えない。
生まれる前後の存在のように、ただただここに居るしかない。
ただただ存在し、
ただただ存在しない。
読者の想像が空虚であるように。