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「────!!」
夢の中で覚えた恐怖や居た堪れなさが、現実の肉体を叩き起こし、肩で息をしつつ飛び起きてしまったリアムは、額から流れ落ちる脂汗に気付いて腕で拭い、ナイトテーブルのアナログ時計を見て深く溜息をこぼす。
最近は見ることが少なくなった過去の夢だが、久しぶりに見た事で体が恐怖を新たなものと捉えて震えてしまい、情けないと苦笑しつつベッドを抜け出してバスルームに向かう。
真夜中にシャワーを浴びたりするわけにもいかず、顔を冷たい水で洗うことで夢の中から現実へと手を伸ばす恐怖を封じ込めようとするが、その結果完全に目が覚めてしまい、眠れるだろうかと鏡の中の己に向けて呟いてみる。
到底眠れる気がせず、下のフロアにあるトレーニングルームでひと汗かけば眠れるだろうと思い、同じベッドで眠っているはずの恋人を起こさないように気を配りながら階段を降り、トレーニングルームに入ってそっとダンベルを持ち上げるが、夢の残滓が筋肉を支配しているようで、いつもは軽々と持ち上げられるそれが到底持ち上げられる重さに感じられず、溜息を吐いてベンチに腰を下ろしたリアムは、この時初めて己の手が小刻みに震えている事に気付く。
夢に見た過去は現在のリアムにまだまだ恐怖を与える存在のようで、これだけ体を鍛えているのにまだ怖いのかと自嘲するが、どれほど体を鍛えようとも、己の犯した過ちで幼馴染の命を奪いかけた過去は消えることはなく、あの時感じた申し訳なさも薄らいでも決して消えることはなかった。
震える左手を同じく震える右手で包んでぎゅっと握りしめればほんの少しだけ震えが収まってくれるが、いつもならば穏やかになるはずなのに今夜はそれができず、どうしてだと舌打ちをしつつ額にかかる前髪をキュッと握りしめた時、ドアをノックされる音が聞こえ、勢いよく顔を上げてヘイゼルの双眸を見開いてしまう。
「…ケイ?」
そこにいたのは、サイズの大きなバスローブをゆったりと着込んで開いたままのドアに肩から寄りかかっていた慶一朗で、起こしてしまったかと申し訳なさから顔を伏せて呟くと、運動をしないのならキッチンに来いと告げられてのろのろと顔を上げる。
「キッチン?」
「Ja. ────地獄に落ちるのを待っているような顔でそこで座っていてもいいけれど」
ただ、そんな顔をしたお前にキスはしたくないしそもそもお前にそんな顔はふさわしくないと笑う恋人の言葉の意味を理解できずに、だけど相応しくないとの言葉に力を分けてもらいベンチから立ち上がると、慶一朗の綺麗な指がゆっくりと折り曲げられて手招きをされる。
それに誘われて一歩を踏み出し慶一朗の横に並ぶと、自然と腰に腕が回される。
「…ハチミツはあるか?」
「ハチミツ?」
「ああ。ミルクも欲しいな」
「あ…ああ、冷蔵庫にある」
そうか、それは良かったと笑う慶一朗の真意が理解できないながらも何かを作るつもりだと理解したリアムは、キッチンに入った慶一朗がミルクパンをコンロに掛け、牛乳を冷蔵庫から取り出すが、卵もついでに取り出してハチミツの用意をしておいてくれと振り返った事に呆然としてしまう。
「何を作るんだ…?」
「エッグノッグだな」
記憶にもあやふやな昔、風邪をひいたときに誰かが作ってくれた、子供のころに唯一美味しいと思った飲み物だと笑い、ボウルに卵とブランデーを棚から取り出して目分量で投入し、砂糖の代わりにハチミツをスプーン一杯。
牛乳以外の材料をよく混ぜ、ミルクパンに注いだ牛乳を軽く温めてボウルにそれを注ぐと、もう一度よく混ぜて軽く泡立てる。
「子供じゃないからブランデーを使ったけど、スパイスは俺が嫌いだから入れてない」
もしかするとお前も両親や祖父母からエッグノッグを作ってもらったことがあるかもしれないから味が全く違うと思うと笑いつつ大ぶりのマグカップに完成したエッグノッグを注ぐと、リアムの手にカップを握らせる。
「…温かいな」
「ああ」
ここで立ち飲みも悪くないがリビングかベッドに行こうと笑う慶一朗に黙ったまま頷いたリアムだったが、慶一朗が自ら握らせたマグカップをそっと奪い取ったため、その行動を目で追いかける。
「…Mein Stern,一人で震えている必要はない」
お前はいつも笑顔で輝いている存在なのだからと、ただそれだけを望んでいる顔でリアムの強張った頬を両手で挟んで鼻先を触れ合わせた慶一朗は、驚くように見開かれた双眸にキスをし、ほら、ベッドに行こうとリアムの腰に腕を回す。
料理などほとんどしないしできない己の恋人が短時間で作ったエッグノッグを零さないように気を付けつつゆっくりとベッドルームに戻ったリアムは、ナイトテーブルにマグカップを置いてベッドヘッドに背中を預けると、慶一朗も同じように隣に座ったかと思うと、リアムの右手をそっと手に取り、掌に掌を重ねて子供が手遊びをするように指を曲げては伸ばしたり、掌のしわを指でなぞったりとリアムの手をおもちゃのようにしていた。
「…ケイ、くすぐったい」
「そうか?…ほら、早く飲め」
エッグノッグが冷めてしまえば味が落ちるぞと笑ってマグカップを示した慶一朗は、リアムの片手がカップを手に取った事に胸を撫で下ろすが、肩に頭が載せられたことに気付き、遊んでいた手にさよならのキスをした後、その手でリアムの頭をそっと抱き寄せる。
「どうした、美味くないか?」
「…飲むのがもったいないなぁって」
「バカなことを言ってないで早く飲め」
そんなものでよければいくらでも作ってやるからと、リアムの髪をゆっくりと撫でながら小さく笑う慶一朗に無言で頷いたリアムは、マグカップに口をつけてゆっくりとそれを飲む。
牛乳とハチミツの優しい甘さが喉を通って胃に到着し、ジワリと体の内側から温めてくれると、抱き寄せられている頭にも温かさが伝わってくる。
内外から温めてくれる恋人とその手作りの飲み物をすべて飲み干すと、慶一朗の手がマグカップを取り上げてナイトテーブルに置き、手招きされて掛布団の中に潜り込む。
「…温まったか?」
「…うん」
「よし。じゃああとは寝るだけだな」
体が少し温まれば眠りやすくなる、だから何も気にせずに目を閉じて眠ってしまえと、潜められた声と優しいキスを額に受けて目を閉じたリアムだったが、背中に回された手がゆっくりと安心させるように撫で、その動きに合わせて夢の残滓が薄らいでいく。
「怖い夢でも見たか?」
「…うん」
「そうか…でもそれは夢だ」
夢の続きはどれほど望んでもなかなか見られるものじゃないと笑う慶一朗に、過去を夢に見てしまったとリアムが小さく呟くと沈黙が流れるが、それは仕方がないなぁとのんきに笑われてしまい、閉じていた眼を開けて意外なほど近くにある恋人の端正な顔を見つめる。
「過去はどうしようもない。お前の腹に収めるしかないな」
どこに逃げようとも付き纏うのが過去なのだからと、達観したように笑う慶一朗にどうしてそんな顔で笑えるんだと呟くと、リアムの頭を胸に抱えるように腕を回される。
「…逃げても立ち向かっても泣いても笑っても付き纏うのなら正面から向き合うしかない」
腹の中の収まるべき場所に収め、そこから亡霊のように姿を見せれば、居場所に戻れと願うしかないと笑い、俺の過去も自慢できるものではないが、すべてを忘れたり逃げ出しても結局今でも夢に見て魘されてしまう。
「…でも、お前がいる」
こうして一緒に夜を超えて朝を迎えてくれるお前がいてくれる、それだけで俺は十分だと、再度頭を抱えられて目を見張ったリアムは、顔を見たいと小さく呟くが、恥ずかしいから絶対に見せないと言い放たれて悔し紛れに細い背中をきつく抱きしめる。
「…だからお前ももしそう思ってくれるのなら嬉しい」
過去の恐怖よりも今を一緒に生きる俺がいることを忘れないでくれると嬉しいと、さすがに羞恥を覚えたのか、早口で捲し立てた慶一朗だったが、背中を抱きしめる腕に力がこもったことに気付き、苦しいと微苦笑しつつリアムの髪を撫でる。
「…ダンケ、ケイ」
「どういたしまして。…満足したら力を緩めてくれ、リアム」
このままではプロレス技を掛けられているようなものだと笑う慶一朗にリアムが慌てて手を離すと、力を緩めるだけで離せとは言ってないと言われておずおずと再度背中に腕を回すと、よくできましたと言いたげに慶一朗がリアムの頬にキスをする。
「…ほら、もう寝れるだろう?」
「うん」
朝も早く起きなければならないんだから寝てしまおうと誘われ、自然と欠伸をしたリアムは、枕に頭をぽすんと落とすと、同じように慶一朗も頭を載せ、吐息が重なる距離で見つめられて一瞬鼓動を速めてしまう。
「おやすみ、Mein Stern,いい夢を」
「うん…ありがとう」
お前が眠りに落ちるまでこうしていると笑って肩を抱かれたリアムは、無限の安心を与えてくれるような手の温もりに自然と目を閉じると、瞼に濡れた感触と小さなキスの音が聞こえてくる。
それを合図にさっきまでは不安だった眠りへと向かったリアムの口から、程なくして穏やかな寝息が流れ出し、肺の中を空にするような息を吐いた慶一朗は、小さく欠伸をし、リアムに遅れて目を閉じて眠りに落ちるのだった。
翌朝、すっきりとした気分で目を覚ましたリアムは、隣で気持ちよさそうに眠っている慶一朗の頬にキスをした後、ベッドを抜け出してシャワーを浴び、二人の朝食を少しだけ豪華にするためにいつもより力を入れて準備をする。
テーブルに並べた朝食は自画自賛になるが美味そうで、エプロンを椅子の背に引っ掛けると、ベッドルームへと階段を上る。
遮光カーテンに朝日を遮られているベッドでは、真夜中に見せてくれた誰よりも頼りになる顔など見る影もない、穏やかな眠りを満喫している恋人がいて、ベッドに膝をついてもう一度その頬にキスをする。
「モーニン、ケイ。朝飯ができたぞ」
リアムの声に不満タラタラな声が上がり、眠いから起きたくないと子供のように愚図る慶一朗の腕を力任せに引っ張り、早く起きろと小さな音を立てて唇にキスをする。
「フルーツか野菜を載せてクレープで巻いて食べないか?」
「・・・・・・ネクタリンが食いたい」
「うん、ちゃんと買ってある」
じゃあケイはフルーツを載せたクレープを食べれば良いと笑い、まだまだ眠っていたいと目を瞬かせる慶一朗を立ち上がらせると、自然と腰に腕が回され、真夜中にベッドにこうして戻って来た時とは全く違う気持ちでキッチンへと向かう。
テーブルに用意された朝食を見た慶一朗の目が一気に覚めたのか、二人で食べる時には当たり前になった、庭を見ながら並んで食べる為に椅子に座る。
「・・・・・・なあ、ケイ」
二人分の朝食の用意を苦もなく行いながらリアムが慶一朗に呼びかけ、どうしたと顔を向けると、うん、昨日はありがとうと照れた様に頬を少し赤くしたリアムが礼を言い、慶一朗が色素の薄い双眸を瞬かせる。
「エッグノッグ、美味かったから・・・」
また作って欲しいなと更に続けられて少し考える様に斜め上へと視線を向けた慶一朗だったが、時々夢を見て魘されているリアムが快適に眠れるのなら、恐怖を覚えた身体が安らぎを覚えられるのならあれくらいいくらでも作ってやると欠伸混じりに告げると、リアムの顔に心底嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「ダンケ、ケイ」
「どういたしまして────リアム、クレープを食いたい」
「ああ、うん、すぐに作る」
クレープ−と言っても実際はガレットの様なもの−にフルーツをたっぷりと載せた皿を慶一朗の前に差し出したリアムは、己の分も同じ様に作ってテーブルに並べ、一緒に食べるのを待っている慶一朗の隣に腰を下ろす。
「いただきます」
二人で食事をするときの決まりの一つの言葉を交わし、リアムがクレープで包んだ野菜を切り分けて慶一朗の口の前に差し出すと、当たり前の顔でそれを慶一朗が食べる。
「うん、美味い」
「そうか、良かった」
元々は食事に興味の薄い慶一朗にどの様に食べてもらうかが目的だったのだが、今ではそれをしなければ食べる気にならない様で、自分の分のクレープを切り分けながら今日の予定を口にする。
「今日は市内の模型屋に行く」
「そうなのか?じゃあ市内でメシを食うか?」
「それも良いな」
新しい模型が入荷したと連絡をくれた店に仕事が終われば出向くがどうすると問いかけ、リアムが軽く運動をしてから市内に行くと告げ、決定と慶一朗が頷く。
そうして、仕事が終わった後の時間の過ごし方を朝一番に決めた二人は、朝食をしっかりと食べ、慶一朗が淹れてくれるコーヒーを飲んだ後、それぞれの愛車で同じ病院に出勤することにおかしさを感じつつも自分達の関係を維持する為だからと我慢をし、少しだけ時差をつけて家を出るのだった。
この日以降、リアムが夢を見て眠れなくなった時や精神的に不安定になる−それは慶一朗に比べれば圧倒的に珍しいことだった−時には、慶一朗は黙ってエッグノッグを作り、リアムがそれを飲み干して心が平穏を取り戻すまで決して傍を離れないのだった。