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幼い頃から多くの魔法を教わった。それほど突出した才能はなかったが、ひたすらに努力家だったヒルデガルドに自身の工房を預け、魔法薬の創り方も教えた。実を結んだのは十五歳を迎えたときのことだった。
「私はとにかく記憶力が良かった。自慢できるのはそれだけだ。今もどの場所になんの薬品や材料が置いてあったか、どれだけの量の備蓄があったか、フラスコについた汚れの形まで正確に覚えている。師匠にもよく褒められたものだ」
まずアレクシアが彼女に教えたのは『一にも二にも記憶が大事』ということだ。どんな魔法でも薬品の精製でも、手順や方法を間違えれば不発に終わる。知識の蓄積は基礎中の基礎であり、応用はそこから敷かれていく。
自分が成したいものには何が必要かをよく考え、正しい順序で進めることが何より大切なことだ、と。
「魔法薬の精製は簡単じゃない。材料を手に入れるところから始まり、魔力を注入する量、時間も計算し、そのときの体調によっては効果がまったく出ないものから過剰に反応するものまで様々だ。君も手帳の内容は頭によく叩き込んでおけ」
揺れる馬車で手帳を広げているのを見て言うと、彼女は話を聞きながらにこやかに「はい!」と元気のいい返事をする。
「まあ、君なら大丈夫そうだな」
ぽつりと呟き、安堵を抱く。イーリスはギルドで出会ったとき以上によく出来た娘という印象を受けた。その瞳に宿る熱意は、当時の自分を超えるかもしれないとさえ感じて思わず笑みが浮かんだ。彼女を選んで良かった、と。
それから一時間ほど馬車を走らせてソンブルウッドへの入り口で馬車を停める。立て看板には『狼出没につき立ち入り禁止』と書かれていた。
「狼かあ。単純にそれで済めばいいんだけど」
「あまり期待はできないな。とにかく行ってみよう」
馬車に小さな宝石を置き、指先で触れる。魔力の波動がふわっと優しく広がった。ヒルデガルドが馬を置いていくときに必ず使う結界で、他の動物や魔物からの感知を防ぐためのものだ。安全は十分に確保してから森に足を踏み入れた。
道なりに進めば狩猟小屋がある。狼だ魔物だと出没が懸念され立ち入りが禁止になってからしばらく、誰も来ていない。
「……ふむ。無理やり扉を開けた形跡がある」
「やっぱり狼じゃないってこと?」
「ああ。かなり強引な方法だから間違いない」
小屋の中をそろりと覗く。既に出て行ったあとか、気配はなかった。
「荒らされたってわけでもないみたいだね」
「とりあえず軽く調べておこう。何か分かるかもしれない」
中は殺風景で寝泊りするのに必要なものが軽く揃えられているだけだ。これといって何かを盗み出した形跡もなく、埃っぽさにイーリスが咳き込んでいる近くで、ヒルデガルドは小屋の裏口を見つめて眉間にしわを寄せた。
「見ろ、イーリス。裏口が開いている」
裏口は鍵がかかっておらず、内側から金具を引っ掛ける簡単なものになっている。誰かが中に入ってから開けたか? と思い、薄く開いたままになっている扉を押し開けて周囲を確かめた。
薪が山のように積まれていて、すぐ傍には焚火の跡がある。
「玄関を壊してから、裏口を開けて薪を使ったとか?」
「それが正しい線だろう。裏口に気付かなかったのかもしれない」
小屋を振り返り、ヒルデガルドは言った。
「この場所について知っている猟師なら鍵を忘れたとしても壊す理由はないし、壊れたままにするはずがない。大したものは何もないとはいえ雨風の影響を防ぐ程度は考えただろう。立ち入り禁止になってから壊されたと考えるのが素直だ」
コボルトは思考こそ単純だが知能はそれなりにある。ヒルデガルドは自身の経験から、彼らが火を熾して暖を取るのは可能だと知っていた。彼らに指示を出せる者がいれば、多少不器用ではあっても人間に劣らない。
「どうする、ヒルデガルド。周辺も探ってみる?」
「そうだな。焚火の跡もまだ新しかったし、遠くへは──」
頭上から何かが飛んでくるのに気付いたヒルデガルドは、冷静なまま咄嗟にイーリスの腕を掴んで引き寄せる。間一髪、彼女のローブを掠めた鋭い槍のようなものが地面にがつんと突き刺さった。
大きい氷で出来た槍で、もし直撃していればイーリスは命を落としていただろう。顔を青ざめさせて「何が起きたの?」とヒルデガルドにしがみつく。
「どうやら探す手間が省けたようだ」
小屋の上には二匹のコボルトがいる。そのうち一方が杖を持ち、耳を垂れさせてか細い唸り声をあげていた。
「あのコボルトが魔法を使ったの?」
信じられないといったふうに震える足で立ち上がったイーリスを支えながら、ヒルデガルドは敵を睨む。
「ああ。コボルトメイジと言って、あのように魔法を使える希少なコボルトがいる。ただ彼らは温厚で臆病で……コボルトロードと呼ばれる王がいなければ人間を自主的には襲わない。せいぜいが畑を荒らすくらいだ。多少強くてもな」
ブロンズランクの冒険者が数人いればメイジでもせいぜい少し厄介な程度だ。ゴブリンの巣に足を踏み入れるよりはよほど安心して戦える相手で、それを彼らもよく分かっているから、自分たちから姿を現したりもしなければ、そもそも奇襲をかけようと考えることもしない。では、なぜ今襲われたのか? ヒルデガルドにはすぐに分かった。
「可哀想に。どこの誰に従っているか聞き出す必要がありそうだ」