【肆と診療所】
十一ノ巻〚露命〛
*
「ねぇ、伊崎。俺達、ずうっと人を救うお医者さんでいようね」
過去の記憶。
私は目の前の血飛沫を見て胸を痛める。
人を救うお医者さん。
私は、管太郎と約束したんだ。
ずっと人を救っていよう、って。
でも私は今人を殺めている。
恐怖心に手が震える。
「伊崎ぃっ!」
遠くに響く管太郎の声。
私はハッと我に返って刀から手を離す。
カラン、と音をたてて刀は落ちた。
私は眼の前が真っ暗になった。
どくどくと煩い鼓動。
吸ったまま吐けない息。
かくりと折れる膝。
朦朧とする意識。
「伊崎っ」
管太郎の声がする。
と、ぎゅっと誰かに抱きしめられた。
耳元で聞こえる管太郎の声。
「伊崎、伊崎。大丈夫だから、落ち着いて」
何が大丈夫なの?
私は、約束を破った。
人を殺めた。
人として、してはいけない。
命を奪った。
「伊崎は悪く無い。俺が、悪かった。ごめんね。弱くてごめん」
何が弱い。
私が弱かった。
心が弱かった。
すぐに怒ってしまうことが私の短所だが、それに便乗して、体が人を殺した。
そんな私の心が弱い。
「ごめんね、伊崎……」
私は意識を手放した。
*
目が覚めた先は、見慣れた天井だった。
体は動かず、目線をやれば、隣には組長の師走武次郎が座っている。
ここは、当り所の診療所だ。
いつ戻ってきたのだろう。
「起きたか」
酷く窶れた声だった。
私は起き上がろうと体を動かしたが、傷の痛みと怠さで起き上がれなかった。
「すまなかったな。お前たちには、護衛を早くつけるべきだった」
なぜお前が謝る。
「組長」
「何だ」
「……もう、診療所やめる」
私はか細い声で呟いた。
組長は目を見開いてこちら見た。
私は、約束を破った。
人を救えなかった。
私は、人を殺した。
何が救う、だ。奪ってどうする。
そんな私に、人を救う権利はない。
もう、やめる。
「襲われたのが嫌だったか」
「そんなのどうだっていい。私なら死んだって悔いはない。ただ、もう、私は人を救えない」
武次郎は一生懸命に返した。
「そんなことはない。お前はよくやった」
「よくやってなんかない。怪我が多少治って動けるようになれば、私はここを出る」
「そんな事言うな。お前は、ここを出てどこへ行く」
「放っとけ」
唇を噛んだ。
涙は枯れた。
武次郎は、拳を握りしめて苦しい顔をした。
それから無理やり話を逸らした。
「……遊郭任務は、退かせた。病などの真相はわかっていたそうだ。対処法の言伝を管理人に渡して来た」
「三人は?」
「葉色と唯なら元気……ではないが、怪我はない」
「もう一人は」
名を呼ばない。
「管太郎は……。大丈夫だ」
「濁すな」
この男がが言葉を濁すということは、良くない状況なのだろう。
だが、見た感じ怪我はあまり深くないようだった。
それに、最強の外傷医、唯がここにはいる。命の心配は不要だ。
「……管太郎にはな、お前が必要なんだ」
武次郎がつぶやいた。
伊崎は顔しかめる。
「そんなこというな。聞きたくない」
「本当のことだ」
「だったら尚更嫌だ」
伊崎は顔を背けた。
時折咳込み、肩を震わす。
“必要”とは、どのような意味なのか。
道具として必要なのか、心の支えとして必要なのか、それともただ一緒にいたいだけなのか。
どれにしても考えたくない。
道具も同然なのは、江戸城で姫をやっていたときと同じことだ。
心の支えなんて、人殺しがなれるものじゃない。
一緒にいたい、その感情は困る。
伊崎自身は一緒にいたくない。否、一緒に“いられない”。
つまり、どれにせよ嫌なのだ。
「伊崎、食欲はあるか」
返答はない。
ずっと咳込んでいる。
武次郎は背を向ける伊崎のでこに触れた。
「熱が上がってきている。よく寝ろ」
「うん……」
伊崎は顔を布団に埋めた。
*
「そう……ですか。伊崎が、そんなことを……」
管太郎は布団に座って声のトーンを落とした。
手元の茶碗に入っている粥は、伊崎の話をし出してから全く減っていない。
彼の怪我は軽いものではなかったが、大して重いものでもなかった。
三日の安静程度でどうにかなる。
故に前に座る武次郎は、体の心配は然程していなかった。が、心配しているのは心だ。
管太郎や伊崎をもちろん含め、ほか二人の元気もない。
(そりゃあ、そうもなるが……)
武次郎はぼりぼりと頭をかいた。
「伊崎にここを出させるわけにはいかん。なんとか食い止めるつもりだ。だが、あいつ……」
言おうか迷った。
が、管太郎の「言え」という強い眼差しに気圧され、口を開く。
「本当にやめるやもしれん。ああ見えて案外顔の広い奴だ。どこで知り合ったのかも知らん者共と普段から付き合っている。ここを出た先にも居場所はあるだろう」
「そんなの……」
管太郎は俯く。
否定できない。
「行かないで」なんて縋ることはしたくもないし、したとしても彼女は決心の硬い人だから意味がない。
だが、だからとて「行ってらっしゃい」と見送ることもできない。
何年も何年も生活をともにしてきた彼女が、急にいなくなるなんて想像ができなかった。
管太郎は特に、伊崎に対して特別な心を持っていたから。
「行ってほしく、ないです」
それしか言えなかった。
*
静かな部屋。
前はここは、武次郎から四天王が説教をされる部屋だった。
だが、怒られるはずの四天王は、怒られるようなことを仕出かしていない。
武次郎と霜月の前に座る二人。
唯も葉色も、元気がないように見える。
食膳は進んでいるようだが、前程の活発さや明るさは欠片もない。
「こんなの、おいしくないよ……」
突如唯は粒やいた。
侍女は驚いて目を見開いた。
唯が誰かの作った食べ物を、まずいと言うような人柄じゃないからだ。
今まで作ってきたが、おいしいおいしいと言って食べてきていた。
「二人もいなきゃ、どれだけおいしいごはんもおいしくなんかないよ……」
そういえことだった。
味を言っているのではなく、彼女は心を言っていた。
葉色はちらちらと侍女のほうを見、気遣いながら唯の肩を撫でた。
が、唯は立ち上がって部屋を出ていった。
出て行き様、侍女の女へ目向けて、「ごめんね」と呟いて出て行った。
愕然とそれを見つめていた葉色だったが、すぐに彼女を追い掛けた。
「……相当、参ってる」
武次郎はため息をついた。
伊崎は日に日に痩せていくし、管太郎は伊﨑の心と体を治すために、自身の睡眠時間も食事時間も削っている。
唯はいつもの明るさもなければ、ああやって暗い気持ちになっている。
葉色は普段通りに見えつつも、診療の報告書が提出期限を破っていたり、薬草の調合を間違えたりと、普段しないミスをしている。
「……どうしたら、いいんでしょうか」
「さあな。俺にはもう、さっぱりだ」
「どこから手を付ければいいのか、私にはわかりません」
「あいつらがあんなだと、俺らまで元気なくなっちまうんだよなあ」
武次郎はまたため息をついた。
*
数日した頃だった。
屋敷から伊崎が姿を消した。
近頃はそこそこ食事もとり、だんだんと体力を回復させていたのだが、それでも、まだ完治とまでは程遠い。
そんな状態でいなくなったのだ。
部屋には言伝もなく、生活必需品は風呂敷と一緒になくなっていた。
(赤い櫛がない)
管太郎は焦った。
もしかしたら、あの弓削千六良とやらの家へ嫁いだのかもしれない、と思ったのだ。
彼女は他に、行く宛があるのだろうか。
行く宛がなくとも、彼女は働いて旅でもしていそうである。それこそあの高値な櫛を売りさばき、数日間は生きているだろう。
それならまだいいだろう。
「『やめる』とは言っていた」
武次郎は深刻そうに声を低めた。
唯も葉色も、元気がない。
部屋の襖の外に女がいる。それには誰も気づいていない。
甚だしい赤い着物の女、神無月朝。
その顔はどこか決心したような顔だ。
(私には、することがある)
朝はその場を早足で去った。
*
「あらあら、当り所の診療所の方じゃありませんか」
遊郭、喜多原の花がら屋にて糸が明るい声を響かせた。
眼の前に立つ、伊崎。
「どうも」
「どうなさいましたか?……もしかして、また流行り病を治しに……?」
「いえ。もう診療所はやめました。なので、ここで働かせてはくれないかと」
「まあ」
伊崎に宛はここしかなかった。
正直、弓削家へ嫁げは姫の立場が公になるので嫌だ。
(ま、遊郭で働いてるなんてバレたらそれはそれで幕府にはこっぴどく叱られるんだろうけど)
生きていくには、仕事は必要不可欠である。
そもそも、彼女は江戸城の人間だということを隠し、生きている。バレる心配はあるものの、バレるつもりはないのだ。
「それは、侍女として?それとも遊女として?」
糸は少し楽しそうだ。
「住み込み、最低朝と晩の飯付き。この条件を満たしているのであれば、どちらでも」
「侍女は住み込みでもなければご飯も作るだけで出せないわ」
「じゃあ遊女で」
実に軽々しい。
伊崎が戸惑ったり焦ったり、ということはほとんどないものの、こうも冷静なのは少し心配にもなるほどだ。
「本当にいいの?楽な仕事じゃないわよ」
「別に、生きてるならそれでいい」
死ぬことを選ばなかったのは、彼女の本心だ。
生きることに意味や理由などはないが、逆に死ぬことにも意味がない。
(約束を守れなかったから何だ。管太郎との約束なんざ、それほど重要なものでもなかっただろ)
と、思うことにした。
が、それは本心とはかけ離れていた。
しかし本心を自分に顕にすれば、苦しむのは自分自身だ。
つまり、ただただ死にたくないのである。
その理由については、彼女にしかわからない。
「あら!糸ちゃん、この可愛いコ、だあれ?」
奥から出てきたのは遊女だった。
遊女の鏡と言えるような、程よい肉付きの彼女。
眼を光らせ、伊崎を見つめる。
伊崎は目のやり場を見つけるために首をあっちやこっちに行ったり来たり。
「ここの遊女さんですか」
「ええ。佐江、この子は新入りよ。この間の流行り病の件で診療に来てくださった、あの四天王様よ」
「元ですね」
きちんと訂正する。
「そうなのっ?!すごい、頭がいいのね〜。はじめまして、数年前からここで働いてるの、佐江よ。今は真っ昼間だし、仕事がなくって暇人なの〜。かまって?」
(かまって、とは?)
伊崎は年上の佐江を冷たい目で見つめる。
が、瞳を綺羅びやかに輝かせ、おねだりする上目遣いは一流だ、と密かに目を逸らす。
「伊崎です」
自己紹介はそれだけである。
「じゃあ伊崎さん、荷物は部屋において、佐江とおめかししてはどう?」
「そうですね。そうします」
「んふふん、可愛くしてあげるわ」
「………はい」
伊崎はこういう人間がやや苦手である。
唯は明るく元気で活発だが、それ以上に彼女は面倒くさい。先の先を後ろから飛んでくるうさぎのようである。
*
綺麗な着物を身にまとい、伊崎はふてくされている。
と言っても、ふてくされているというわけでもないのだが、普段からこのしかめっ面なのだ。
「ほら、笑顔笑顔!」
佐江はにこりと笑って見せる。
伊崎はしかめっ面でそれを睨む。
「いるか?それ」
「いるよ!いるいる!愛嬌は大切!」
二人のそんなやり取りを見、糸が口を挟んだ。
「でも、冷たいところが売りの遊女もいるわよね。伊崎さんは天然の冷たさなのかしら」
(なんでもいいけど)
正直伊崎は自分事に興味がなかった。
何の大した出来事がなくとも、ただただ生きていればそれでいい、そう思えるのが彼女であった。
(愛嬌なんて、生きる術の一つでもなんでもないや)
彼女に一番欠けるもの。
それはきっと、愛嬌と何事への興味である。
*
夕日が傾く時頃、初客は訪れた。
その顔を見、不貞腐れ頬をぷくうとふくらませる伊崎。
本来客に対してそのような態度は示さないが、相手が相手である。
その相手というのが、あの弓削千六良であった。
「……なぜここにいる」
あの四天王襲撃事件以来、彼はおとなしくしていた。
汐見家まで着くと、管太郎に反発する武士を切って回ったが、弓削家の次期当主様がこんなことをしていると公になれば、弓削家が立場を失う。
そう考え、彼は管太郎を信じてその場を去った。
管太郎も同じことを思っていたのか、千六良が相手に切りかかった(浅い傷を負わせ、再起不能にした程)際は慌てて止めに入った。が、本当に止めてしまえば、管太郎が伊崎を救えず困るのだ。目を瞑った。
「……諸事情にて診療所はやめた。しかし職がなければ生きては行けん。食べ物と寝床と金がもらえる仕事といやぁ、ここくらいしかなかったもんで」
千六良は眉を吊り上げた。
「諸事情とは、四天王襲撃だな。その後どうなった?……と聞きたいところなのだが、聞き捨てならない言葉があったよ。こんなところで身売りするなら、私の嫁へ来ればよかったじゃないか」
「嫁は嫌だ」
「なぜだよ」
面倒だ、と思ったのか、伊崎は早急に話を切り替える。
「それより、なぜ四天王襲撃の件を知っている。もしや、関係者か」
伊崎は彼が、主犯の汐見家と何らかの繋がりがあるのかもしれない、と疑った。
千六良はそれを見越して薄く微笑む。
「関係者といえばそうかもしれないな。お宅の管太郎とやらが君を探している際、人手を貸したのさ。その後、公になってはいけまい、と私は尻尾を巻いて逃げた」
伊崎は目を細める。
嘘は言っていないようだ。
管太郎に聞けば本当かすぐにわかるからだ。
(それは、借りになるのか)
そこばかり気にするのが伊崎という人物である。
彼がいたから殺されずに済んだ訳だし、救われたとは思っている。が、その後色々あって結局今は職を失い、なぜか遊女ごとをしている。
そこに関しては、彼が逃げなければ他に道はあったのかもしれない、と思ってしまう。
(人のせいにするのはよくない)
伊崎は考え直した。
「それは恩に着る」
とりあえず感謝は告げた。
「いいや。……それより、診療所には本当に戻らないのか」
「戻らない。もう、医者はできない」
「『しない』んじゃなく、『できない』のか」
「しないし、できない。というか、できないからしない」
伊崎はこの話題は避けていたかった。
診療所は楽しくて好きで好きで、満足感のある日常を遅れたのはあれのお陰だ。
だから嫌なわけじゃないし、むしろ本当はずっとあそこにいたかった。
だが、人の命を奪った自分が人を救うという境遇に自分を許せず、出てきたのだ。
そのため、『しない』わけでも『できない』わけでもなく、『してはいけない』というのが本心である。
むろん、これは伊崎ひとりの考えである。
「城へ戻ればいいだろう」
前触れもなく、千六良は言った。
伊崎はいつも以上に鋭く、怖い目で彼を睨んだ。
「黙れ」
どれほどあそこが嫌なのだろう。
千六良からしてみれば、そんなに悪い生活だとは思えない。
だが、やはり家の駒を嫌がった千六良は、家の道具として扱われる姫に対して同情もする。
が、このまま伊崎に遊女として働かれても困る。恋心故に。
「それが嫌ならうちへ嫁へ来るんだ」
「……お前と夫婦仲になりたくない」
「飯も寝床も衣服もある。悪くないだろう」
「悪くないが良くない。お前と夫婦など、それなら遊女のほうがまだいい」
「ほざけ」
どちらも頑固だ。
決着のつかぬ競り合いは、タイムリミットによって中断させられた。
「また来る」
という言葉とともに、名残惜しそうに千六良は部屋を後にした。
伊崎は疲れ切った様子で寝転がり、数刻微睡んだ。
その後、糸に起こされておつかいを頼まれた。
遊郭を出、町のほうの塩屋に塩を買いに行けとのことだった。
正直町には色んな目があり、姫だとバレる可能性もあるし、診療所の仲間と鉢合わせさる可能性もある。断りたかった。しかし折角養ってもらっているのだ。例として、このおつかいを受けた。
すぐに化粧を落とし、着物を着替えて出た。
普通、遊女はそう滅多に外は出られない。脱走の危険があるからだ。
だが、今の今まで大層有名だったあの四天王の伊崎を閉じ込めるわけにもいかず、また、四天王襲撃の噂は江戸中日本中を駆け巡っており、糸もそれを聞いており、気分転換になれば、とおつかいを頼んだのだ。
外に出れば、紅く燃える空が目に入った。
もう時期日が暮れ、夜の帳が下りる。
それまでには帰るつもりだが、何と言ってもこのあたりを歩いたことの少ない伊崎は、迷子にでもなりそうで仕方なかった。
すぐに塩屋へ行き、塩を買った。
重さのある塩を片手に、帰ろうかと店を出たが、どうもどちらから来たかわからなくなってしまった。
(多分こっち)
勘である。
それが正しいか、正しくないかはわからないが、てりあえずわからないなら歩くしかない、と歩いていた。
しかし、それは正しくなかったようだ。
通った覚えのない橋が目の前にある。
これを越えれば、多分いつもの江戸の町。
(江戸とは、道が入り組んでいて嫌になる)
伊崎は引き返そうと振り返った。
と、そこに見覚えのある顔があった。
むっすりと頬を膨らませて、女らしい華奢な立ち姿で立っている。
その着物の色は、綺羅びやかに見せるような、派手な赤。
診療所の神無月朝である。
彼女はなぜか怒りのこもった目でこちらをじっと見つめている。
伊崎は関わりたくなく、もう橋を渡ってしまおう、と橋を向いた。そのまま橋を歩いて行ったのだが、橋の真ん中辺りで後ろから腕を掴まれた。
振り返りたくないがために、掴まれたまま前へ行こうと真正面を向いて歩いた。
が、朝は朝で絶対に逃がすまい、と強く握っている。
結局折れたのは伊崎で、振り返ると朝が起こり顔で立っていた。
「何のようだ」
それしか言うことが思いつかなかった。
「わかってるでしょ」
わかってるかもしれない。
「診療所に戻ってきて」
朝は真剣な目でそう言った。
驚きもせず、伊崎は口を開く。
「存外だな。私ら四天王のことが嫌いなお前にそんなことを言われるだなんて」
「あんたたちがいないと、診療所が成り立たないの。そうなれば私の食い扶持も減る。だから言ってるの」
「へぇ。四天王じゃなくても、三天王でもしてりゃいいじゃねぇか」
「あんたもわかってるでしょ。四天王は四人揃っていないと本当に力を発揮できない。あんただって、三人のうち誰かがいなくなれば、残念で悲しくて仕方なくて、仕事なんて手に負えないでしょう?」
「……」
朝と言うことは論に通っている。
本当に正論で、なんの間違いもない、紛れもない真実だ。
「それと」
朝はぐいっと伊崎に寄った。
それから、思い切り伊崎の頬を平手打った。
辺りに響く、乾いた音。
街行く人は何ら気にせず行っている。
『火事と喧嘩は江戸の華』という言葉のせいだろう。
伊崎はあまりに急な出来事に、少し驚く。
「憎い。から、戻って」
朝の言葉に伊崎は首を傾げる。
打たれた頬を手で抑えながら、
「はあ?」
と眉を寄せた。
朝は伊崎を橋の木組みに押し当て、怒鳴る。
「憎い!!憎い憎い!」
「それはうんとわかってる」
四天王に恨みを抱いているのは、早くからわかっている。
それはそうだろう。
先に診療所に入ったのは自分なのに、あとから入った四人に先を越され、出世したのだ。
憎い他ないだろう。
「憎いからと言って、なぜ『戻れ』になる」
伊崎も声を張った。
朝は怯まず、伊崎へ必死の顔で言った。
「あんたには、医学の才も知識も経験もある。だから、医者にはうってつけよ!なのに、その才能を捨てて、他に行こうと言うの?そんなの、憎すぎる」
「そんなの私の勝手だろ」
「医者をしないなら、その才能を私に頂戴!」
「意味わかんねぇんだよ!」
二人は橋の上で取っ組み合い。
お互いに、むしゃくちゃしている。
すると、朝が伊﨑の肩を押した瞬間、バランスを崩した伊崎が橋から体を浮かした。
朝は咄嗟に手を伸ばしたが、重力には逆らえず、伊崎の体は下へ下へと落ちていく。
下は大きな川。
溺れ死ぬ確率が高い。
朝が顔を蒼くさせた瞬間、朝の隣を誰かが飛んだ。
そのまま川へ飛び込み、伊崎を掴まえた。
管太郎である。
「あ、あんた!」
朝は川へ身を乗り出した。落ちないように気をつけながら。
どうやら伊崎も何気に泳げたらしく、どちらも溺れず川辺に座り込んだ。
管太郎は見事な泳ぎだった。
袴は濡れて気持ちが悪い。
が、伊崎はそれ以上に居心地が悪かった。
眼の前にいるのは管太郎で、なんと話したらいいかもわからない。
無言で立ち去る手もあるとは思ったものの、管太郎の補助のお陰もあって、溺れず済んだのだ。
感謝の一言くらいは言わなければ。
伊崎がどう言おうか悩んでいると、先に口を開いたのは管太郎だった。
「帰ってきて」
いつもの優しい笑顔はない。
真剣な瞳だ。
伊崎はなお戸惑う。
「そうは言われても、困る」
「俺だって、伊崎いないと困る」
お互いに、お互いを困らせたいわけじゃない。
だが、意見は食い違う。
「なんで、やめるの?理由があるの?」
「……」
伊崎は黙った。
濡れた袴から水は滴り落ちた。
「私は、人の命を奪ったんだ。奪うものが、救うものになんてなれない」
「つまり、罪悪感なんだね」
管太郎の言葉に、うつむく伊崎。
しかし管太郎はまっすぐに伊崎を見つめて言った。
「今まで、伊崎は沢山の人を救ってきた。奪った命は戻らないし、確かにその事実には抗えない。だけど」
伊崎の肩を掴み、管太郎はまっすぐな眼で伊崎へ告げる。
「奪った分の命、救おうとは思わないの?」
伊崎は苦しいような顔をした。
それでも管太郎は続ける。
「伊崎が奪った命を、犬死ににさせるつもり?それじゃ、あまりに死んだ人が可哀想だよ」
「どうしろってんだよ」
「伊崎はあのとき、俺のために怒って、命を奪った」
管太郎は悲しそうに目を細めて、伊崎を強く抱きしめた。
それに驚く伊崎。
「じゃあ、犬死ににさせないために、伊崎が俺を幸せにさせるべきじゃない?」
へんな理屈だ。
管太郎はこんなこと、これっぽっちも思っていない。
だが、言っていることは朝同様、通っている。
どうしても診療所に伊崎を引き戻したい管太郎の、巧妙かつ意地悪い手だ。
伊崎はそれもわかっていた。
管太郎はああみえて、プライドというものが案外高い。
そのため、女である(好いている)伊崎に「幸せにして」なんて言うはずがない。
むしろ、自分が幸せにしたいと思っている。
それを読み、伊崎は心の底から感動を得た。
自分を、求めている人がいるのだ。
それに、奪った命は取り戻せない。ただ、奪った分の命を救えばいいのだ。
もちろん、それで過去が消えるわけでも、死んだ人が戻るわけでも、もちろんない。
だが、伊崎自身の罪悪感はそれにて薄まる。
伊崎は管太郎の腰に手を回した。
「うん、ありがとう」
涙ながらに伊崎は、一言告げる。
姫である以上、自分は道具として扱われるべき存在であった。
ために、心の向くままに自分を求める人がいただなんて、伊崎は幸せだった。
こうして、伊崎は診療所へ戻った。
その際、買ったのに水に浸かってなくしてしまった塩と、詫びの品としての味噌と醤油少々を花がらへ持っていった。
糸と佐江は嬉しそうに、でも悲しそうに笑って、「びしょ濡れじゃなんだから」と着物をくれた。
それに着替えて診療所に戻った頃には、すっかり月が昇っていた。
帰ってきたことに安心した仲間たちは泣いて笑って、宴までをも催した。
その裏にある、ただただ酒を呑んでうまいものを食べたいだけ、という仲間たちの心理は既に納得済みの伊﨑は、すぐに寝た。
明日から迎える、患者診療に備えて。
*十一ノ巻〚露命〛