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テラーノベル(Teller Novel)
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枕元の置き時計のカッチカッチが、どうにも耳につく。ベッドに入るなりそれが気になってしまい、これは寝つけないかもしれないという嫌な予感に襲われた。やれやれ、ただでさえ不吉な〈悪夢の寝室〉だというのに。

時計の針が無音だったとしても、今夜はなかなか眠れないような気がする。知り合って間もない売れっ子作家の家にお邪魔していることに加え、今日経験した色々なものが頭の中に詰まっていて、順不同に甦ってくるため目が冴えてしまう。

部屋が真っ暗になるのは好きでないから、ナイトテーブルのスタンドに仄かな明かりを灯している。けれどもう少し光量を落とすか、いっそ消してしまおうか? カーテンの隙間から差し込む星明かりがあれば、完全な闇になるまい。

掛け布団から右手を出して、スタンドのスイッチを切る。誰かに目隠しされたように暗くなったが、少しすると窓の辺りだけ闇が溶けていった。

静かだ。風に木立が騒ぐこともない。

この家の主は「おやすみなさい」を交わすとベッドに直行して、たちまち眠りに就いたらしい。彼の寝室は同じ二階にある。フロアの端と端で離れているが、まだ起きているのなら小さな物音が私の耳に届いてもよさそうなものだ。

「おやすみなさい。良い夢が見られますように」

今日最後に聞いた言葉は、皮肉めいていた。そこで寝たら必ず悪夢を見るという部屋に客を泊めるのだから、朝までぐっすり眠れることを祈ってもらいたかった。

もっともそんな部屋で一夜を過ごすことを臨んだのは他ならぬ私自身。主は「いいんですか? 別の部屋の用意もありますよ」と念を押してくれたのに、ミステリー作家たるもの科学的合理精神を貫徹しなくては沽券に関わるのでこちらを選んでしまった。明日の朝、相沢由里子に会ったら「葛城さんは〈悪夢の寝室〉で寝たよ」と福内に報告してもらいたかったのだ。度胸と作家らしい好奇心を持ち合わせていることを彼女が評価してくれたら嬉しい、と考えたばかりにーー畜生、安らかに眠れそうにないぞ。

さっきまで主と語らっていた一階のリビングの壁に、『ナイトメア』のポスターが貼ってあった。白釉社のエントランスにあったのと同じもので、赤で記されたキャッチコピーは〈あなたに悪夢を〉。あれがずっと視野に入っていたのは、まずいのではないか。暗示効果が発現して、脳が本当に悪夢を上映しだすかもしれない。いや、警戒するな。

ごくありふれた部屋で、心身にストレスを与える要素は見当たらない。室内にあるのはベッド、スタンドと置き時計を乗せたナイトテーブル。小さなクローゼットだけ。装飾品は絵の一枚もなく、壁紙はおとなしいクリーム色で無地。それに合わせた黄色っぽいカーテンは、ありふれたボタニカル柄。ブドウ科の植物の蔓のデザインの一部が恨めしげな人の顔になっているわけでもないし、なっていたとしても明かりを消したから見えない。十畳ばかりの部屋はゆったり感じるだけで、決して人を不安にするほど広すぎたりしない。寝具も高級で、睡眠を妨げるものは何もないはずだ。

心を鎮めて、眠りに入っていこうーーとすればするほど、脳は活発に動き出す。ここに来るまでの道中で見た景色、車中で交わした会話、〈トロイメライ〉での出来事やディナーに出された料理の数々など、記憶の断片が自動再生されてしまうのだ。こうなると、抵抗するのは難しい。


相沢が階段を踏み外した時は驚いた。もっと高いところから落ちたら、大怪我をしていたかもしれない。「しばらく部屋で横になってください」と福内は気遣ったのに、十分ほど椅子に座っていたら「もう大丈夫です」と言った。予定通り私たちと無幻荘に来て、その後は元気にしていた。彼が私に顔を近づけ、「湿布薬があるんだけれど、打った場所が場所だけに『さぁ、これを貼りたまえ』と女性に勧めるのも憚られますね」と真剣な顔で囁いたのは、思い出すとおかしい。

彼女のアクシデントを目撃した桃瀬夫婦の驚きぶりは普通でなく、何かわけがありそうだ。が二人が口々に話してくれたので、事情はすぐに分かった。

「二年ほど前。今と全く同じところで、同じように小野さんがよろけて倒れたんです。だから、ぎょっとしました」

「立ちくらみだと伺って安心しましたぁ。小野さんみたいに心臓が原因だったら大変、と。思わず体が硬直してしまって」

小野さんが何者かについては、夢幻荘に移動してから福内から説明があった。

「小野悠聖といって、六年前から僕のそばで事務から雑用まで手伝ってくれていた青年です。二十九歳だったけれど、青年と言っていいだろうなぁ。まだ若々しくて、大学生に見えなくもなかった」

相沢はその青年と一面識もないのだが、彼については前任者からよく話を聞いていた。多忙な彼にとって、会計や税務の処理から家事や車の運転手まで引き受けてくれる心強い味方だったらしい。

「小野さんの後任の方は、まだお探しにならないんですか?」

そんな彼女の問いに、ホラー作家は「うん」と小さく頷いた。

「簡単に代わりが見つかる人材ではないよ。仕事は覚えられても、偏屈な作家に合わせてくれるキャラクターでなくてはならないからね。どこでどう募集したらいいのか、見当がつかない。相沢さん、そんな人に心当たりはある? 白釉社で探してくれる? 僕が東京に行っている時の留守番もお願いするから、勤務地は当然こっちだよ」

「探してみます」

きっぱり答えた彼女に、福内はふふふと笑う。

「いや、いいよ。自分で探す。だけど、小野二世を見つけるのは不可能だな。事務から掃除から食事の支度から車の運転をこなすだけじゃなくて、彼は余人をもって代えたい特殊能力の持ち主だった。創作のアイディアをいくつも預けてくれたよ」

「それは……うーん、はい。すごく特殊な能力ですね」

「どんな能力だと思います?」

彼が私に顔を向け、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

「創作のアイディアを預けてくれた、ということは……特上の悪夢を提供してくれる人だったんですか?」

「おお」と大袈裟に仰け反る。

「見事に的中だ。ええ、その通り。彼ほどたくさんの悪夢を話してくれた人はいないし、これからも現れないでしょう。シリーズ第三作に出てきた、『奈落の森』を覚えていますか? スタジアムの廃墟の中に無気味な森があって、そこで狩人が死闘を演じるシーン」

「はい。あの舞台設定ならではのアクションが最高でした」

率直な感想を述べると、ホラー作家は満足げに頷く。

「小野君の夢をヒントにして書きました」

さらに言う。

「代わる者がいないと断言するには、わけがあります。僕にとっては幸運であり、彼にとっては不運なことに寝るたびにナイトメアを見たんです」

そんな人間がいるのは初めて聞いた。特異な体質のせいなのか、精神的な何かが要因なのか。分からないが、さぞつらいだろう。

「信じられないという顔をなさっていますが、事実です。いや、僕は彼の脳内に忍び込んで確認したわけではありませんけどね。彼が嘘をついている様子は微塵もなくて、とめどもなく見た悪夢について話してくれましたよ。彼以外にも、悪夢しか見ないという人に会ったことがあります」

「取材をなさっていて、ですか?」

「はい。七年前に『ナイトメア』の第一作が評判になった後、私はウェブサイトを立ち上げて悪夢を公募しました。大勢の読者がアクセスして、マイ・ナイトメアを書き込んでくれましたよ。小野君の他にも『悪夢しか見ない』という方が二人いたな。その中で、創作のヒントとして使えたのは小野君のものだけでした。悪夢の質が高かったというよりも、彼の表現力が豊かだったわけです。メールをやりとりして東京在住だということが分かると、こちらから面談を求めました。会って話を聞くとさらに面白い上、失業中で生活に困っているということだったので、雑事を手伝ってもらうアルバイトとして雇うことにしたんです。大阪出身の彼は、東京を離れて亀岡に転居するのを厭いませんでした。便利屋みたいな使い方をしても不平をこぼさず、よく働いてくれましたよ。無愛想で無口だったけれど、それも好ましかった。僕はね、一緒にいる人間に気を遣われるのが暑苦しくて苦手なんです。その点、相沢さんは……ね」

「私がすごく鈍感な担当者みたいなんですけれど」

編集者は笑いながら言う。ただの軽口なのだ。

「相沢さんは、こちらが気を遣わないように配慮しつつケアしてくれるから最高だ、いう話だよ。ーーとにかく、あの小野君のような人は探して見つかるものじゃない。さっきは『自分で探す』と言ったけれど、ハプニングで天から降ってくるのを待つしかないね」

そんな得がたい人材を、福内から手放すはずもない。小野悠聖が一身上の都合で辞めたのかと思ったら……。

「どうして彼の後任を探さなくてはならないのか、葛城さんは疑問に思っていらっしゃるでしょうね。小野君は亡くなったんです。二十九歳の若さで」

ホラー作家が沈痛な面持ちになると、編集者の顔にも憂いの翳が差した。彼女は小野と会っていないのに、敬愛する作家と感情が同調しているらしい。

福内は不意に右腕を伸ばし、ある方向を指差した。

「ここに来る途中、空き家が三軒あったでしょう。うちから一番近い家で小野君は暮らしていました。職住接近というわけです。そこで突然、亡くなりました。死因は心筋梗塞。二十代でもあるんですよ。彼は血圧が高かったのに、世話になるばかりで彼の健康に配慮していなかったことが悔やまれます。小野君が〈トロイメライ〉の階段で胸を押さえて倒れた時は心配して、『医者に診てもらいなさい』と言いはしたけど、面倒がって行かないのを放置してしまったのだから薄情な男です。彼は独り息を引き取った。本当にかわいそうなことをしました」

「でも」

相沢が言葉を挟む。

「突然死なんですから、先生にはどうしてあげることも出来ませんでした。ましてその時、先生も大変な状態で入院なさっていたんですから」

小野が急逝したのは、彼が交通事故で入院している間のことだったのだ。どうすることもできなかったと承知しながらも、まだ気持ちの整理がつかないのだろう。

「最後に彼が見たのは、どんな夢だったんだろうと考えてしまいます」

福内は視線を床に落とし、右手で左肩を揉みながら言う。

「彼、ベッドで冷たくなっていたそうです。心筋梗塞は睡眠時に襲ったんですよ。だとしたら、彼が悪夢を見ている最中だったかもしれない。それがどんなものだったのか……」

こういう時、作家の想像力(あるいは妄想力)は悪く作用してしまう。小野がひどい悪夢の中で恐怖に貫かれながら絶命する場面を、不必要なほどリアルに思い描いてしまうのだ。

話題を変えた方がよさそうだったが、私が舵を切る前に相沢が言う。

「あちらのお宅は、まだそのままだそうですけど」

車の中でもそんな話が出てきた。

「小野君の家か? うん、ほったらかしだ」

ホラー作家は顔を上げて、両サイドに垂らした長い髪を物憂く掻き上げる。

「ご遺族が片づけにいらしていると、〈トロイメライ〉で伺いました」

オーベルジュで私がトイレに行って戻ると、そんな話をしていたようだ。「小野さんの家に昨日からーー」といったやりとりを聞いても、ご近所の噂話だろうと全く気に留めていなかったが。

「彼の昔の知り合いらしい。ご遺族の許可をもらって見にきたそうだよ。昨日の夕方、僕も会って少し話した。向こうから訪ねてきたんだ」

「若い女性だそうですね。小野さんの元恋人ですか?」

「自分ではそう言ってなかったな。高校時代の友人だというから、せいぜいガールフレンドだろう。幼馴染みかもしれない。彼がどんな仕事をしていたのか、聞かれるままに三十分ぐらい話したよ。小声でボソボソ話すんだけど、頭がよくてしっかりした人だったな。相沢さんほどではないにせよ、ほっぺたがプクッとして可愛らしかった」

「ほっぺたがプクッ、ですか? これでも先月頑張って一キロ落としたんですよ」

「君が? 余計なことを。相沢さんには、痩せないでもらいたいなぁ」

悪気がなかろうと体型の話はよくありませんよ、福内先生。たとえ相手が男性であっても。

「その人、昨日はあの家に泊まったそうですね」

彼女は、やけにその女性のことを知りたがる。

「ぜひ泊まりたい、と希望したんだ。夜は〈トロイメライ〉がパーティーの予約で塞がってたそうで、コンビニ弁当を持参していたよ」

「小野さんが亡くなったベッドで寝てみたかったからじゃないですか? だとしたら、ただのガールフレンドではなさそうです」

確かに。そうでなければ、日帰りで切り上げそうなものだ。

「あり得るね。君の頭の中では、切ないラブストーリーの構想がまとまりつつあるみたいだ。……まぁ、あまり詮索はしないでおこう」

ここで彼は席を立ち、私たちに遅いアフタヌーンティーのお替わりを淹れてくれた。三つのカップから湯気が立ち上る情景を、妙に鮮明に思い出す。

バキリと家鳴りがした。目は冴えるばかりだ。

「実は、サスペンスものを書いてみたいんですよ」

小野悠聖の話が一段落したところで、福内は言った。ついては、私にアドバイスを仰ぎたいと。読んでおくべき名作を尋ねられたので、その程度の質問には気軽に答えた。警察の捜査の実態に関しては手に余る。「こういう時に、どの部署がどう動くか?」という設定がどれもイレギュラーで、その場にならないと分からないことばかりなのだ。もとより、私は警務や広報についてよく知らない。

「変なことばかりお聞きして失礼しました。現役の警察官に取材するしかなさそうですね。それが分かっただけでもありがたい」

「お役に立てなくて、すみません」

「とんでもない。不勉強なまま質問した僕が反省すべきです」

ホラー作家は鷹揚に言ってから、カップを手にしたまま予想外の言葉を放つ。

「葛城さんは、殺人現場をいくつもご覧になっているそうですね。それはミステリーの執筆に際して参考になっていますか?」

どうしてそれをと聞き返す前に、相沢が説明する。

「私が、片岡さんから聞いたことを先生にお話ししたんです。犯罪心理学者の日向ツボミ先生の助手として、葛城さんが警察の捜査に協力なさっていることを。内密にしておくべきことだったのなら、お詫びします」

笑いそうになった。内密にしておくべきであったらまず片岡に詫びてもらわなくてはならないし、それ以前に私の口が軽すぎたということだ。

「相沢さん、それは違う。君と片岡さんがボソボソしゃべっているのを耳にした僕が、『それはどういうこと?』と無理やり聞き出したんだ。ーーそちらのお話はご迷惑ですか? 犯罪心理学者が警察に捜査協力することが現実にあるというのに興味を惹かれて、つい聞いてしまいましたが」

「私は迷惑に感じませんが、日向はフィールドワークのことが公にならないようにしていますので」

「ああ、フィールドワーク。社会学者でいらっしゃるんでしたね。世間には秘密のまま犯罪捜査で名探偵ぶりを発揮するのだとか。ミステリーから抜け出してきたような人だ。でも、葛城さんはその先生が解決した事件について書かない」

「はい」

「信念として、虚構を書くことに専念しているわけですね。ストイックな姿勢だ。もういくつぐらい現場を踏みましたか?」

「何十回も」とだけ答えた。

「そのことは内緒にしておきますよ。秘密だからこそ面白い。遊英大学の准教授で京都にお住まいなのだから、日向先生にお目にかかってみたいとも思います。でも、会わずにどんな方か想像して楽しむことにしましょう。大学時代に知り合って、一人は犯罪学者。一人はミステリー作家になったことはご縁があったものです。十四、五年のお付き合いですか。最後に出た学校で作った友人とは、えてして一生の付き合いになる」

「福内さんの場合も、そうですか?」

彼は自嘲めいた笑みを覗かせる。

「僕は文学仲間と片っ端から喧嘩別れしたので、ろくに友人がいません。文学談義というのは恐ろしいんですよ。こちらから切った奴もいれば、『低級な戯作に逃げやがって』と僕と絶縁してきた奴もいる。人間関係がリセットされたおかげでさっぱりしました」

本音のようだ。男友達についてはそんなふうにさっぱりしたとしても、女性関係はどうなのか? 独身を通しているのは特定の女に束縛されるのを嫌っているせいで、次々とパートナーを替えるという噂がある。が、大袈裟に語られているだけかもしれない。東京にも拠点があるにしても、艶福家だったらこんなネオン街から遠いところに引きこもっていられない。

ところで今、何時だろうか? ベッドに入ってから、もう一時間は経った気がする。


〈トロイメライ〉の料理はどれも美味しかったが、クリームスープに包まれた帆立貝のローストが絶品だった。できることなら、月に一度くらい食べたい。

仕事の話も交えてディナーを楽しむ私たち三人から離れたテーブルでは、湯本という客が独りで舌鼓を打っていた。桃瀬和世が「この京野菜たっぷりのリゾットはいかがでしたか?」などと話しかけるのに、「極上の味ですね」と応えながら福内に声をかける。私を紹介してくれたので、名刺を交換した。彼湯本航はまだ三十歳で、ジャコメッティの彫刻のような痩身だが落ち着いた物腰は余裕と貫禄すら感じさせた。職業はスマートフォン向けのゲーム・クリエイター。勤めていた会社を退職して、「のんびり充電中です」とのこと。

ーーボク、ここの料理には目がないんです。虜になってしまった。この二年間、月一のペースで通っています。

ーー昨日はびっくりしましたよ。車の後ろで雷がドーンとですから。車載カメラをつけておけばよかったな。後ろ向きに付けていたら、すごい迫力の映像が撮れてネットにアップできたのに。

ーーボクが勤めていたのは、新大阪にある〈イリンクス〉というゲーム会社です。昔、『絶叫城』というテレビを模倣した連続殺人が起きて騒ぎになりましたね。あれを出したところですよ。上司が馬鹿でやっていられなくて、見切りをつけました。新しいアイディアを温めているので、それを手土産にいい会社を売り込むつもりです。

話しぶりは露骨に自信家。「ボク」を強調して発音するのが少しうるさかったが、それが印象的だったせいか彼の言葉は耳に残っている。ああ、眠るのに邪魔だ。

福内とオーベルジュを出る時には、オーナー夫婦の姪で厨房にいた真央が挨拶に出てきた。歳は二十五歳。ただの手伝いではなく、将来は独立できるよう叔父から料理人としての手ほどきを受けているのだとか。ショートヘアでボーイッシュに見えたが人見知りをする質らしく、初対面の私と目が合うのを避けていた。「ありがとうございました」と言った声は、まるでアニメの可憐なヒロイン。それも外見に反していたので、「えっ?」と声が出かけた。

ーー肉体に負荷を掛ける何かがその部屋にあるんじゃないのか? それが原因で夢見が悪いってことだろう。

三日前の電話で聞いた日向の言葉まで出てきた。勘弁してくれ。わいわい、がやがや。頭の中で会議が開かれているようで、寝られたものではない。

いったん仕切り直すとして、ベッドに腰掛けた。そして、気にならなくもないシーツのたるみを伸ばす。顔を上げて窓の方を見たら影が小刻みに動いていたので、どうしたのかとカーテンの隙間から覗く。前庭の木の枝が揺れていた。二重窓が音を遮断しているだけで、さっきから風が吹いていたらしい。

この部屋は北西の角にあり、道路に面している。朝まで車の一台も通らないのだろうなと思いながら見ていたら、左手から誰か歩いてくるではないか。目を凝らさずにはいられない。

暗いし距離があるので顔立ちまでは分からないが、ふわりとしたワンピースを着た女だ。背中を丸め両手をぶらぶらさせてすり足で近づいてきたかと思うと、夢幻荘の前をゆっくり通り過ぎていく。魂をどこかに忘れてきたような、人間らしさを欠いた歩き方のまま。背筋がぞくりとする。

私は「あかん」と声に出して、ベッドに戻った。

変なものを目撃してしまった。恐らくあの女がこれから見る悪夢に出現し、私を追い回すのだろう。夢の中のあいつは、大草原を駆けるチーターより速く走るに違いない。深い森や荒涼とした野原を越え、私は懸命に逃げて逃げて。ついには人気のない倉庫街の行き止まりに追い詰められて、もはやこれまでと懸念したところで呻きながら目を覚ます。すると部屋の中にあの女が立っていて、耳まで避けた口をカッと開きこう言うのだ。

……どんな言葉を発するのか思いつかない。即興でお話を組み立てる技量のない作家だなと自分に失望したおかげで、恐怖が薄れていった。

もうベッドから出まい。窓には決して近づかない。

意志の力で全てを追い払い、瞼の裏側をじっと見つめることにした。闇を感じて、そこに吸い込まれるのをイメージする。

次第に効果が現れ、睡魔が這い寄ってきた。ようやく到来したこのチャンスを逃してはならない。

誰の言葉も思い出すな。人間の声を意識から消して、風景やモノだけを脳内のスクリーンに映写しろ。

そう念じていたら、階下のポスターにあった赤い文字が闇の中にゆらゆらと浮かび上がってきた。歓迎すべからざるメッセージが、私に告げる。

〈あなたに悪夢を〉

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