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力を持たぬ者が望んだ結果が、これだ。

 所詮は高望み。

 差し出さなければならない代償が、彼女。

 エルディア・リンゼー。傭兵としての高い実力と屈託ない笑顔が、ウイルという無力な子供をこの地に導いてみせた。

 旅の目的は、母を救うため。

 患者を死に至らしめる謎の病。変色病とも呪恨病とも呼ばれており、原因は不明だが発熱の後に視力を奪い、最終的には肌の色が紫色へ変わる頃に羅漢した女性を確実に殺す。

 そう。この病気は女性に限定される。

 その理由も仕組みも未だ解明されておらず、三百年前に蔓延した際はイダンリネア王国の人口を大きく減少させるに至ったが、それっきりの出来事ゆえに問題視されておらず、情報の多くは隠匿された。

 光流暦千十一年。

 記念すべき、そして悲惨な千年祭から十一年が過ぎ去った今、少年は傭兵となり、迷いの森を目指す。

 白色の古書が教えてくれた。

 ハクアという魔女から病気の手掛かりが得られるかもしれない、と。

 目的地は目と鼻の先だ。この地を東から西へ横断すればたどり着ける。

 ここはミファレト荒野という名の戦場だ。植物すら育たぬ未開の荒れ地で、エルディアと巨人が雌雄を決する。

 結果は惨敗だ。腕を折られ、右足を噛み千切られ、もう間もなく握り潰される。

 取り付く島もない。

 助ける術もない。

 ウイル・エヴィ。今ではウイル・ヴィエンと名乗るこの少年に出来ることは一つ。

 白紙大典の言う通り、一目散に逃げることだけ。

 それでも追い付かれるかもしれない。彼女を見捨てたところで次は自分が狙われるのだから、危機的状況に変わりない。

 一か八かの賭けだ。

 分が悪いかどうかは、ベットしなければわからない。

 一秒でも早くこの場から立ち去ることが絶対条件であり、迷っている時間などありはしない。

 晴れ渡る青空。

 茶色がどこまでも続く大地。

 赤色の水たまり。

 人間を持ち上げながら、いたぶるように握りしめる隻腕の巨人。

 限界を超えた痛みに悲鳴をあげるエルディア。

 そして、絶望に飲み込まれた少年。

 ここは戦場だ。力無き者が順番に死に絶えていく。


(このままじゃ私達まで手遅れになっちゃう! ううん、私はこんなだからどうでもいい。だけどあなたには未来がある。だからこそ逃げて! そして生きるの!)


 白紙大典も必死だ。この状況ですべきことはそれしかなく、仲間を見捨てるという行為がどれほどつらいかは彼女とて理解している。

 もっとも、思い出の中と今日とでは立場も状況も異なる。

 あの時は自身という犠牲を払い、状況を打破した。

 今回はエルディアを諦め、自分達だけでも逃げなければならない。

 心が痛いに決まっている。

 それでも逃亡すべきであり、少年にはそれ以外の選択肢は提示されない。

 なぜなら、戦うことなど不可能だからだ。実力が伴っていないのだから、そんな思惑は死にに行くのと大差ない。

 もし、再び前へ踏み出したのなら、それは錯乱状態ゆえの異常な行為であり、白紙大典としてもウイルを生かすことを諦めるしかない。

 だが、この少年は臆してはいても意識を保てている。眼前の光景は正視出来ぬほどにむごたらしいが、脂汗を浮かべながらも二本の足で立てている。

 心が強い証拠だ。現実を受け止め、自分の成すべきことを必死に考えている。

 同時に、エルディアの悲鳴と白紙大典の声に耳を傾けてもいる。


「考えろ……。考えろ……。考えろ!」

(そ、そんな猶予はないの! 振り返って全力で走りなさい! お、お願いだから私の言うことを聞いて!)


 時間などない。熟考している間も、エルディアは死に近づいている。

 旅の目的を達成するためならば、白紙大典に従えば良い。

 ミファレト荒野まで来ることが出来たのだから、そして魔物感知という天技に目覚めたのだから、ここからは一人でも進めるはずだ。

 彼女が息絶えるまでの時間は、ここから離れるための猶予でもある。

 ウイルの足は速くない。それでも、あの魔物から離れることは可能だろう。

 その距離が生きるか死ぬかを分かつのだから、一刻も早く走り出さなければならない。

 白紙大典はそれを理解している。

 そして、ウイルもそれは同様だ。

 それでもなお、後退しない。

 逃げ出さない。

 本来の目的を優先するのなら、彼女を見捨てる他ないとわかった上で、少年はその場にとどまり続ける。

 なんと愚かな。そんなことは重々承知だ。それでもなお、前だけを見据える理由は、恩人を救いたいと願ってしまったからだ。

 ここは境界線だ。

 生きるか、死ぬか。

 前へ進むか、後退するか。

 助けに向かうか、自分だけ逃亡するか。

 どちらかを選ばなければならない。

 もっとも、ウイルは既に決めている。

 どうしたいのか? 己の意思はその方向性を決定しており、未だ手段は見つからないが、目先の行動方針は揺るがない。

 今がまさに線の上だ。それを自覚した上で、少年は自分のわがままを押し通す。


「とりあえず……」

(ななななな⁉)


 走り出す。

 方向は後ろではなく、正面。両手を精一杯振りながら、硬い地面を蹴り続ける。


「時間を稼ぎながら、考えます」

(無理だって! え? え? こ、この子ってこんなに聞き分けなかった⁉)


 乾いた空気を全身で受けながら、悲鳴の発生源へグングンと近づく。

 目的は至ってシンプルだ。

 二人揃って、隻腕の巨人から逃げきりたい。

 そのためにすべきことは少なくない。

 先ず、魔物の関心を自身に向けさせ、エルディアの延命を図る。その前に息絶えてしまうかもしれないが、その可能性は一切考慮しない。

 次いで、解放されたエルディアを連れ出し、この場から立ち去る。

 その際にこの巨人の追跡を振り切らなければならないのだが、そんなことは不可能だ。

 ウイルもそんなことはわかっている。そのための手段が思いつかないのだから、前進は悪手以外のなにものでもない。

 それでも諦めたくない。強く、そう欲してしまったのだから、少年は狂ったように走り続ける。

 この子供は既に正常とは程遠い。傭兵という非常識な生き方を選んでしまったのだから、その時点で狂人だ。

 一度は死のうと思った。

 母のおかげで死ぬことが愚かだと気づかされた。

 そして今、自分の命を投げ捨てようとしている。

 諦めてはいないのだが、助かるはずがないとも理解出来ている。

 それでも戦場の中心に向かう理由はただ一つ。

 エルディアを見捨てたくないと願ってしまった。好意というよりは恩義がそう思わせてしまったのだが、理由はどうであれ、ウイルは己のわがままを突き通す。

 無謀だ。

 そんなことはわかっている。

 無茶だ。

 百も承知だが、構わない。

 非力な自分に出来ることは時間稼ぎだけ。それすらも失敗するに決まっている。

 二人揃って死ぬだけなのだろう。そう察しながらも、ウイルは行動を開始する。


「やめろぉー!」


 とりあえずの目標地点に到着したことで、少年は次のステップへ移行する。

 魔導書を眼前に呼び出し、右手で掴めば準備完了。減速しつつも勢いを上乗せし、振りかぶって狙いを定めるや否や、前方の巨大な魔物に投げつける。

 投てき攻撃だ。

 投げる物は何でもよいのだから、手ごろな小石が見つかれば、子供らしくそれをぶつけるつもりでいた。

 しかし、走りながらでは見つけづらく、少なくとも視界範囲内には見当たらなかった。

 ならば代用品で済ますまで。

 それは出し入れ可能な上、適度に硬い。重すぎず、軽すぎず、しいて挙げるならその形と大きさゆえに少々投げづらいが、わがままを言っている場合ではない。


(え⁉ 私をー⁉)


 この本には意思が宿っている。ページを開くも閉じるも彼女の思い通りだ。ゆえに放り投げたとしても思惑をくみ取って、空中で開くことなくボールのように軌道を描く。

 運良く、白紙大典は薄緑色の上半身にドカッと命中する。ウイルから見て、この魔物は左を向いており、その視線の先ではエルディアが右手に潰されかけている。流血は今なお続いており、その勢いは蛇口から流れる水のようだ。

 失われた左腕。そのすぐ下、つまりは左わき腹に訪れた衝撃が、鋭い眼光を別の人間に向けさせる。

 痛みなどない。何かがぶつかった、その程度の認識だ。

 それでも、邪魔されたことだけは理解出来る。

 もしくは喧嘩を売られたのか。

 どちらにせよ、お楽しみの時間に水を差されたのだから、腹を立てずにはいられない。


「もう一度……」

(なんて人使いが荒い……)


 小石代わりに投げられ、見事役目を果たした白紙大典だったが、少年は二投目をかん発入れずに実行する。

 そのために、落下と同時にその場から消え去った彼女を、ウイルは即座に呼び直す。

 これも、この本を選んだ利点の一つだ。

 白紙大典は契約者と彼女自身の意思で、自由に姿を現せる。出せる場所はウイルの周囲に限定されるものの、投げつけた後も改めて呼び出せば拾い直す手間が省ける。

 便利なことこの上ない。だからこそ、今はその利便性を雑に使わせてもらう。


「エルさんを……離せぇ!」


 掴み、振りかぶって、狙いを定めながら投げつける。

 ウイルの運動神経は決して優れてはいない。制球力も人並み以下だろう。

 それでも二投目が巨人の顔面に当たった理由は、幸運の女神が微笑んだと言う他ない。

 書物を投げつけられたところで、痛くも痒くもないのだろう。魔物は終始表情を変えずに、落ちていくそれを黙って眺める。

 ウイルの思惑は成功だ。

 投げつけられた物体を拾うため、隻腕の巨人はついに人間を手放す。

 エルディアは既に瀕死だ。受け身すらとれず硬い地面に落とされ、指先一つ動かさず、血だまりに浸りながら横たわる。

 丸太のような右腕が、純白のそれを目指す。巨人族には多少なりとも知恵があるのだが、本の発明には至っておらず、眼下の白紙大典に対しても長方形の何かという認識でしかない。

 太い指先が彼女に触れかけた瞬間、それはそこからいなくなる。

 何が起きた?

 その答えは、離れた場所に立つ小さな人間が提示する。

 灰色の短髪を風で揺らしながら、右手を前に突き出し、宙に浮く本を迎え入れる少年。

 おまえの探し物はここにあるぞ。そう訴えかけながら、三投目に備える姿はまさしく傭兵のそれだ。

 この瞬間、隻腕の巨人は思い知る。

 おちょくられた。

 からかわれた。

 そして、挑発された。

 全て正解だ。ウォーボイスのように注意を引き付けつつ、その上で時間を稼ぎたい。それこそがウイルの思惑だ。

 怒りの余り、巨人は小さく震え始める。耐えられぬほどの闘争心が内から湧き上がり、足元に転がっている肉塊には、もはや一切の関心もわかない。

 あの人間を完膚なきまでに殺す。

 プライドが傷つけられたのだから当然の感情だ。大口を開けての叫び声が荒野を激しく揺らすと同時に、静まるよりも早く、巨躯が駆け出す。


「……え」


 この状況、ウイルにとっては想定内であり、想定外だ。

 追いかけられるよりも先に逃げ出すつもりでいた。それで何秒時間を稼げるかまではわからなかったが、エルディアがまだ生きていることを前提に、彼女だけでもその場から離れられる機会を作るつもりでいた。

 作戦とも呼べない無鉄砲な思惑は、一瞬にして霧散する。

 ウイルが走り出すよりも早く、巨体が目の前に移動し終えていてしまう。殴り殺すために走っただけなのだが、足が不自由であろうと短距離なら全速力に近い速度が出せる。

 このままひき殺してしまった方が手っ取り早かったのだが、今回は拳で撲殺すると決めている。そうしなければ気が晴れず、小さなこの人間を怒りに任せてひき肉にするつもりだ。

 助からない。

 ウイルもついに死期を悟り、山のような巨体を見上げる。

 振り上げられる拳。これが振り下ろされた瞬間、自分は死ぬのだと冷静に分析出来てしまう。

 避けることも受け止めることも無理だ。ならば大人しく、潰される他ない。

 怒りながらも笑う巨人。

 茫然と絶望する少年。

 演劇は終了だ。悲劇の主役は悪役に抗うことも出来ず、無残に殺される。シナリオ通りの展開であり、観客にも予想可能な陳腐過ぎる結末で幕を閉じる。


(滑稽で、実におもしろかったヨ)


 見知らぬ女の声が、ウイルの中で走る。

 両者のチャンネルが繋がった瞬間だ。偶然ではなく必然なのだが、状況がウイルに考える余地など与えるはずもなく、そもそもこの声に聞き覚えなどない。

 白紙大典のような芸当だが、似て非なる声質だ。つまりは彼女ではなく、別人がこの少年に別れを告げている。

 エルディアの声でもない。もっと低く、イントネーションもどこか不気味だ。

 誰だ? そんな疑問を持つ余裕もなく、迫る拳を見届ける。

 恐怖のあまり両目を閉じたいのだが、それすらも間に合わない。

 潰されてしまうのか。

 バラバラに弾けてしまうのか。

 人間の形をある程度保ったまま、吹き飛ぶのか。

 結果を知ることはないだろう。その前に絶命するのだから、そういう意味では苦しまずに済む。

 どれであろうと、死が近づいていることは間違いない。

 エルディアを救いたかった。

 母の病気を治したかった。

 どちらも本心だ。

 残念ながら、力を持たぬ子供には決して叶えられぬ願いであり、弱者が戦地に足を踏み入れてしまったのだから、狩られたとしても文句は言えない。

 己の無力さを呪う暇もなく、一方で魔物という存在の理不尽さを噛みしめながら、隻腕の巨人によってウイルは殺される。

 決して変えられぬ幕引き。人間と魔物が争うこの世界において、このような悲劇はどこにでも溢れている。

 敗者は命を落とし、勝者は次の獲物を求める。

 その繰り返しだ。

 淡々と流れる時間と共に、命は当たり前のように消費され続ける。

 今日、この場所で殺される。

 二人の人間が殺される。

 先ずはウイル。

 次いでエルディア。

 その事実は覆せない。

 聴衆でさえそう確信し、その散り際を見届ける。

 荒野に吹き荒れた突風。圧迫感を含んだそれがこの場を駆けた瞬間、死にゆくものは命を拾い、刈り取る者は驚きと共にその手を止める。


「……な、何が」


 たじろぐ少年と、硬直する魔物。どちらも未だにこの状況を理解出来ていない。

 ピタリと止まった、正しくは止めるしかなかった巨大な右腕。

 何かが起きた。その程度の認識が限界であり、ウイルは視界を覆い尽くす拳を凝視しながら、ゆっくりと半歩後退する。


「まさか⁉」

「グウゥゥ……」


 正解に至ったタイミングは両者同時だ。先ほどのプレッシャーがきっかけであり、その発生源については考えるまでもない。


「エルさん!」


 ウイルの声が荒野に響く。

 ウォーボイスだ。対象の行動阻害を可能とする戦技であり、これを浴びせられた魔物は攻撃目標を強制的に制限される。

 戦技に晒されたのはこの巨人。大きな体が重圧に飲み込まれ、体が自由に動いてくれない。


(よ、よかった……、本当に)


 生きている。彼女は死人のように横たわっているが、見た目に反して存命だ。顔を起こすことも出来ないようだが、少なくとも死んではいない。

 それに気づかされたのだから、巨人はその拘束に抗うことなく、反転し歩き始める。

 ウォーボイスの影響でウイルを撲殺することは出来ない。もっとも、十秒待てば解除されるのだからじっとしていても良いのだが、死にたがっている人間がいる以上、望み通りの順番で殺す。


「ま、待って……」


 遠ざかる背中へ、少年の悲痛な声が投げかけられる。要望が通らないことも重々承知の上だが、口が動いてしまったのだから仕方ない。

 エルディアが生きている。その事実に一瞬だが喜べた。

 しかし、実際には何の解決にもなっていない。

 傷だらけの巨人は、未だ動かぬエルディアを殺し、そのついでのようにウイルも殺すだろう。

 どうすることも出来ない。

 彼女を救うことも。

 彼女と逃げ出すことも。

 夢のまた夢だ。

 先ほどの感情がぬか喜びだと思い知り、少年はついに涙を浮かべる。

 悔しい。

 情けない。

 泣くことしか出来ない自分が本当に不甲斐ない。


(……あなた、誰?)


 ウイルの置かれた状況を他所に、大事な、そしてありえないやり取りがウイルを介して開始される。


(アレ? ワタシに話しかけてル? どうやっテ?)


 突如として現れた第三者。とぼけているのか、本当に驚いているのか、白紙大典にはわかるはずもない。


(この子と繋がっているのは私だけ。それだって契約があってのこと。だけど、あなたはいきなり接続してきた。この子に……、ううん、この子と私に。いったい何者?)


 ウイルの心に直接話しかけられる存在は、白紙大典ただ一つだ。地下室で巡り会い、契約という手順を踏むことで実現した現象なのだが、突然現れたそれはそういったルールを一切無視している。

 謎の客人がウイルに脳内で話しかけるだけならまだわかる。この本もその程度のことなら契約なしに可能だ。

 だが、今回は事情が異なる。

 ウイルと白紙大典と謎の第三者。皆が一度に繋がっているのだから、驚くことから始めざるをえない。


(ニンゲンの中にもう一人のニンゲン? いや、違う、違ウ。この声……、そうか、そういうことカ。実に、実におもしろいイ!)

(ふ~ん、私のことを多少なりとも知ってる……と。だけど私はあんたのことなんか知らない。誰なの? 自己紹介くらいしたら?)


 楽しそうな声に対して、彼女は不快感を前面に押し出す。未だ状況がわからず、その上巨人族という驚異は去っていない。焦って当然だ。


(まだ教えてあげなイ。どうせいつか再会すル。うん、間違いなク。だから、その時まではヒ、ミ、ツ)


 心の中で続けられる不可思議な質疑応答。当人の意志や都合などお構いなしに、二人は腹の内を探り続ける。

 不愉快だ。

 ウイルは泣きながらも苛立ちを覚える。今すべきことは別にあり、素性を探ることなど後回しでいいはずだ。

 まるで時間の流れが遅くなったかのように、巨人の歩みが遅く見える。たった一歩に何秒もかけるような不可思議な光景。

 走馬灯なのか。

 錯覚なのか。

 どちらにせよ、少年はその議論に割り込まずにはいられない。


「今はそれよりも! お願いです……。エルさんを、助けてください……」


 自分に出来ないとわかったのだから、助けを求めるしかない。

 その訴えは力強く、同時に弱々しいが、白紙大典ともう一人を一瞬だが黙らせるには十分だった。


(……うん、そうしてあげたいのは山々なんだけど……、ね。ごめん、もう無理なの。私にしてあげられることは、コールオブフレイムを分け与えることだけ。私にはそれしか残っていなかったから)


 この発言に嘘偽りはない。この状況下でしてあげられることはなく、だからこそ、逃げることを訴え続けていた。


(君は十分踊ってくれたかラ、もう死んでもいいヨ。うん、想像以上に楽しめタ)


 取り付く島もない。見捨てるのではなく、最初から手を差し伸べるつもりなどないのだから。


(アー、キミは回収するヨ。ちゃんと届けてあげないト)

(な⁉ そこまで私のことを……)


 知っている。この女は通りすがりの誰かではない。


(本当はこのニンゲンに届けさせるつもりでいタ。だけど、失敗。当たり前と言えば当たり前。想定通リ。筋書き通リ)


 静かに笑いだした何か。これは傍観者ではなく、当事者だ。

 白紙大典は思考を巡らせるも、今はまだ手がかりが不足しており、その正体を言い当てることは到底出来ない。


「僕の真上にいるんでしょ? だったら、見てないで助けてくれてもいいじゃないか! せめて……、エルさんだけでも……」


 溢れる涙が頬をつたう。

 左目の泣きほくろを濡らしながら、八つ当たりのような言い分を一方的に主張するその姿は、まさしく子供そのものだ。


(真上……?)

(このニンゲンも……? そういうこともあるのカ。実におもしろイ)


 ウイルの発言が両者を驚かせる。

 上には何もない。まぶしいだけの空がどこまでも広がっているだけだ。今日に限っては雲も鳥も見当たらない。

 言い当てられる理由は、母親譲りの天技が教えてくれたからだ。

 礼儀知らずな部外者がそこにいる。それを知ったところで状況は好転しないはずだが、彼女にとってはそうではなかった。


(へ~、そんなところにいたんだ~。お手柄だよ、君ぃ。おかげで感じ取れたし、色々と合点もいった。なるほどなるほど~)


 ぼんやりとだが、白紙大典が第三者の正体を掴む。実際のところは謎だらけだが、大事なことが一つわかったのだから、今はそれで充分だ。


(ワタシを見つけたところで、君達に何が出来るノ?)

(そうね、本来なら何も。なにせこちとら、思い出も魔力も手放した空っぽの本ですもの。だけどね……)


 やるべきことは一つ。それによって少年の願いが叶うかどうかは運に左右される。それでもやらなければ二人を見殺しにしてしまう。

 ならば、考えるまでもなく、白紙大典は唯一の可能性に手を伸ばす。


(ウイル君)

「は、はい」

(あの巨人を、倒したい?)

「もちろん。でもそれは……僕のすべきことではありません」

(この期に及んで、まだワタシに頼りたいのかイ? 滑稽だネ)

(ううん、そういうことじゃないんでしょ?)


 彼女の言う通りだ。ウイルの本質を多少なりとも見抜けているからこそ、試すようなことを尋ねてしまった。


「僕はただ……、エルさんと共に逃げ切りたい。それだけです」


 隻腕の巨人を倒すことは主題ではない。

 ウイルの願いは、二人で無事に逃げ延びること。それ以上でもそれ以下でもなく、あの魔物を倒せるのならそれが手っ取り早いことも事実だが、それが無理なことは重々承知している。


(だよね。今から君に新しい魔法をプレゼントしてあげる。でも、それじゃあれを倒せない。それでもいいんだよね?)

「新しい……魔法?」


 条件は整った。問答のようなやり取りが時間を稼ぎ、そのための準備を完了させる。


(うん。今から奪い返すから……)

(先ほどから何を言っていル? ン? ま、まさカ⁉)


 白紙大典とウイルは繋がっている。目に見えぬ導線が伸びており、本来ならばその一本だけのはずだ。

 偶然と必然があわさり、新たな線が紡がれた。それはウイルを起点として、上空へ真っすぐ伸びている。

 ならば、それをたどれば到着だ。その先で待っている欠片を、彼女は力づくで取り戻す。


(千年ぶり……かな。おかえり)


 本来の所有者なのだから、黄色い残滓はスムーズに移動を開始する。

 真っ赤な業火から、純白の本へ。

 常軌を逸した魔力の塊が、不可視の道をなぞりながら待ちわびたように流れていく。


(一瞬で排出されタ……? ソウ……カ。これも騙していたんだナ! さすがだヨ、ハクア!)


 一杯食わされたと気づいたことで、火球のような何かが高々に笑い始める。

 一方、上空の声を無視しながら、白紙大典は次のステップへ移行する。


(さぁ、受け取って)


 本来の主に帰還を果たした黄色い魔力群。このまま彼女の中に定着したがっているようにも見えるが、時代がそれを許さない。

 千年ぶりの再会を喜びつつ、白紙大典は二つ目の力を少年に付与する。


「こ、これは……、これも魔法……!」

(新たな契約、ううん、契約更新ってとこかな。もう時間がない。急いで)

(見せてもらうヨ。フフ、楽しい舞台の第二幕……、始まり始まリ!)


 開演だ。観客に見守られながら、ウイルは新たな力を行使する。

 守りたい。

 今なら間に合うはずだ。

 三者のやり取りは長いようで一瞬だった。だからこそ、まだ間に合う。


「色褪せぬ赤は、永久不変の心を顕す」


 眼前には純白の魔導書。合図と共に開かれ、目当てのページを探し始める。


「守るために巡り、縛るために記されし言霊達……」


 高まった魔力が、少年の体からあふれ出る。その突風はそよ風を飲み込み、荒野を揺らすほどだ。

 異変を感じたのだろう。傷だらけの巨人が立ち止まり、顔だけをこちらに向ける。


「我らの旅路を指し示し、絢爛の花を咲かせたまえ」


 新たな魔法は守るための力。それを行使するため、一節一節言葉を紡ぐ。


「在りし日の思い出と共に、色褪せぬ幻影を抱きし者よ……」


 感謝しかない。この魔法は今のウイルに最適だ。正面の魔物を倒すことは出来ずとも、そんなことは望まない。

 白紙大典がピタリと静止する。目的のページに行きついたのだから、後は合図を待つのみだ。


「揺蕩う理想郷で、色褪せぬ想いに寄り添う者よ……」


 エルディアを助けるため。

 二人でこの場から逃げ切るため。

 少年は新たなカードを切る。


「祝福されし幼子達を、見守りたまえ。蔑みたまえ!」


 舞台の上でウイルは叫ぶ。主役なのか、脇役なのか、それすらも知らされぬまま、アドリブで物語を切り開く。


「グラウンドボンド!」


 新たな魔法が花開く。

 この巨人は人間の言葉を理解しないが、異変には即座に気づく。

 一歩も歩くことが出来ない。

 前へ進むことも、後退することも、どちらも不可能だ。

 金縛りではない。頭部も、右腕も、上半身も自由に動かせる。つまりは、両足がその場に張り付いてしまった。

 詠唱の完了と共に、巨人の足元に発生した黄色い輪。それは一瞬で収縮し、点となって消え去る。

 それこそがこの魔法の着弾だ。成立してしまった以上、この魔物はそこから動くことなど出来ない。

 グラウンドボンド。弱体魔法に分類される一種。対象を傷つける等の殺傷能力は持たないが、その場に縛ることで足止めが可能だ。多数の魔物と戦う際に重宝されるのだが、使い勝手も相まって評価は高くない。効果時間は最大で三十秒。長いようで短い、絶妙な猶予だ。


「ガァ!」


 上半身をばたつかせ、下半身の自由を取り戻そうとする巨人。もちろん、その行為は無駄な足掻きだ。

 二本の足は大地にへばりついているわけではない。そう見えるが、実際のところは空間そのものに固定されている。

 ゆえに、絶対に歩けない。どれだけ暴れようと体力を消耗するだけだ。

 魔法の成立を合図に、ウイルは駆け出す。悠長に構えている状況ではない。二つの意味で時間との勝負だ。

 悔しそうな魔物を横目に、颯爽と追い抜く。その威圧感は健在なため、内心では恐怖心が増大するも、今までと比較すればちっぽけだ。

 もっとも、白紙大典は気が気でなかった。グラウンドボンドにより動けなくなったところで、切り札を使われたら終わりだったからだ。


(ガオーってやつを警戒しないの?)

「衝撃砲……のことですか? だとしたらしません。多分、この個体は使えないんです」


 そこまで計算づくなのか、と彼女は唸る。

 衝撃砲。巨人族が使う必殺の攻撃手段だ。破壊力を伴った雄たけびであり、射程はそれほど広くないが、近距離の人間なら容易く粉砕する。

 ウイルは堂々と巨人の真横を素通りしたが、最短ルートを選びたかったということもあるが、衝撃砲の危険性を考慮するならば悪手と言えよう。

 だが、その可能性は排除した。エルディアとの戦闘で一度も使わなかったことと、グラウンドボンドの後も彼女に向って実行しないことがその理由だ。

 この少年は学校で既に生物学を学んでいる。その授業では人体の構造や動植物だけでなく、魔物についても学習する。その中には当然のように巨人族も含まれており、それら全てが衝撃砲を使えないということも履修済みだ。

 人間がそうであるように、魔物にも得意不得意が存在する。

 頭が良い者。

 運動神経に優れた者。

 剣の扱いに長けた者。

 魔法に秀でた者。

 衝撃砲が使える個体と、そうでない個体。

 それだけのことだ。個性とも言えるのだろうが、ウイルは既に見抜いていた。

 この巨人は打撃を専門とする魔物なのだろう、と。

 ゆえに、必要以上に遠回りはしない。傷だらけの巨体を横目に、真っすぐ彼女を目指す。


「エルさん!」


 ついに到着だ。

 血だまりに溺れる彼女は、うつ伏せのままピクリともしない。黒色の衣服も、紺色のスカートも無残なまでに汚れており、スチールアーマーに至ってはひん曲がった状態で外れている。


「先ずは……」


 応急処置からだ。背中の鞄を一旦降ろし、小さな小瓶を取り出す。中は青色の液体で満ちており、ウイルはポンと蓋を外す。


「これでどこまで癒えてくれるか……」


 そう呟きながら、少年は死体のような彼女へ容器の中身をふりかける。

 それを合図にぼんやりと輝くエルディア。薬の効果が発動した証拠だ。一安心とは言い切れないが、少なくとも手遅れという状況からは脱却する。

 エリクシル。錬金術の賜物であり、回復魔法のように傷を癒してくれる。高価ゆえにおいそれとは買えないが、冒険の際は最低でも一本は携帯すべきだろう。

 この薬を使用したことで、生きながらえたことは間違いない。死人に対しては発動せず、具体的にどの部分が治療されたかは要確認だが、この場でそれをするには時間が足りない。


(問題はここから……)

「うん、わかってる」


 やるべきことは残っている。むしろここからが本番だ。惨状を引き起こした存在が、後方で睨んでいる。一刻も早くこの場から立ち去らなければ、巨人が自由を取り戻してしまう。

 時間との勝負だ。

 ウイルは次のステップに取り掛かる。

 忘れ物の回収だ。噛み千切られ、吐き捨てられた右足。脛から下がそのままの形で放置されており、これを置き去りにしてしまうと彼女の傭兵稼業は途絶える。

 靴を履いているという事実がより一層生々しく、以前のウイルだったらこれに手を伸ばすことなど不可能だった。

 しかし、今は違う。魔物の死体なら数え切れぬほど見て来た。それを解体し、内臓を取り出しながら可食部を確保する過程も観察済みだ。

 気持ち悪い。そう思う感情を払拭しきれてはいないが、ためらうことだけはしない。

 覚悟を決めている。

 ここから二人揃って逃げると決意している。

 そう願ったのだから、ウイルは止まらない。包み込むように彼女の右足を拾い、マジックバッグにそっと収納する。無事に逃げ切れた際は彼女の傷を治さねばならない。ゆえに足の回収は必須事項だ。

 間髪入れずエルディアに駆け寄り、様子を伺いながらも抱きかかえる。背中に担ぎ、彼女の分も歩くつもりだ。

 そのつもりでいた。


(ぐ⁉ お、思ってたよりも……! これが人間の重さ……)


 想定外だ。軽くはないだろうと予想していたが、その重量は腕が痺れるほどだ。上半身を起こすだけならもちろん可能だが、背中に乗せ、運ばなければならない。弱音など吐きたくないが、その分、顔を歪ませてしまう。


(急いで! グラウンドボンドがもう終わっちゃう!)


 白紙大典も焦らずにはいられない。

 少年に与えられた時間は、たったの三十秒。用事を済ますにはあまりに短く、巨人も鼻息荒くその時を待っている。


「わかってます」


 だが、慌てない。取り乱したところで何一つ良いことはないと、十二歳ながらにわかっている。


「グラウンドボンド」


 エルディアを抱きかかえたまま、ウイルは隻腕の巨人へ片腕を向ける。

 それを合図に、巨体の足元に発生する黄色い円。収縮の末に消滅すると、魔物を再度拘束してみせる。

 秒数なら数えていた。三十秒という猶予は命綱であり、白紙大典に指摘されずとも脳内の時計で把握済みだ。


「……急がないと」


 追いつめられている。二度目の足止めに成功したものの、状況は悪化の一途をたどるばかりだ。

 その理由は二つ。

 魔源の残量と累積魔法耐性だ。

 ウイルの魔源は心許ない。傭兵ではあるものの、実態はただの子供であり、魔法の使用回数は限られる。

 グラウンドボンドは魔源消費量が少ない魔法なのだが、それでも現時点で四回しか使えない。

 残りは二回。時間換算でたったの六十秒。無駄遣いは避けたい局面だ。

 仮にこの魔法を何度でも使えたとしても、魔物相手には過信出来ない理由がある。

 累積魔法耐性。この特性が弱体魔法の前に立ちはだかってしまう。

 人間と魔物は様々な点で異なる。

 姿形。

 体の大きさ。

 知能の有無。

 食事の必要性。

 繁殖方法。

 生物として別種なのだから、差異を挙げるときりがない。

 その中の一つが累積魔法耐性だ。魔物にだけあって人間にない概念であり、これの存在が傭兵や軍人を悩ます。

 受けた弱体魔法に対して徐々に免疫をつけ、それが数度続くことでやがては受け付けなくなる。一時的なものとは言え、同種の弱体魔法を無効化してしまうのだから、グラウンドボンドを用いた足止めは恒久的なものではない。

 ゆえに、急ぐ。魔源の残量とこの耐性が、少年の尻に火をつけている。


「ふん! う……」


 エルディアと地面の間に臀部を滑り込ませ、持ち上げるように立ち上がれば準備完了。彼女を背負うことには成功したが、ウイルは青ざめる。もう既に体力の消耗が激しいからだ。

 足は震え、一歩も歩けそうにない。彼女を背負いながらの起立はそれほどにつらく、たったこれだけの動作で限界を迎えた己の非力さが、今はただただ恨めしい。

 もっとも、エルディアの体重はウイルを大きく上回っている。身長差も五十センチ近くあり、なにより彼女は筋肉の塊だ。ただの子供にはあまりに荷が重い。


(こ、これで歩けるのか……?)


 それでも進むしかない。

 立ち止まっていれば、二人とも巨人に殺されてしまう。

 それを回避するため、強く願い、新たな魔法を授かったのだから、この好機を逃すつもりなど毛頭ない。

 ここからは己との闘いだ。体が悲鳴をあげようと、足腰が折れ曲がったとしても、彼女を運び続ける。

 そんな決心は、一歩目で打ち砕かれる。


「いっ!」


 声が漏れてしまうほどの激痛。発生源は左足であり、一瞬だが全重量を支えた側だ。

 折れてしまった?

 筋組織が断絶した?

 原因まではわからないが、負傷したことだけは確かだ。


(だ、大丈夫?)


 その問いかけに答えられないほど痛む。ただでさえ重い荷物がのしかかり、そのまま前かがみに倒れてしまいそうだ。


「ギギギギ……」


 ウイルは全力で歯を食いしばる。涎を拭く余裕はなく、前かがみゆえに視界は茶色の大地しか捉えない。

 歩け。そう命令しようと右足と左足は動かない。太く、柔らかい太ももを支える両手も痺れ始めており、全身が既に疲労困憊だ。

 助けたい。ここまで連れてきてくれたのだから。

 救いたい。無力な自分に手を差し伸べてくれたのだから。

 諦めたくない。そう強く願ってしまったのだから。

 今まではずっと守られてきた。エルディアという傭兵にはそれを可能とするだけの実力があり、道中、出会った魔物を完膚なきまでに討伐してきた。

 ウイルを守るという名目で、己の欲望を満たしていただけなのだが、どちらにせよ旅はすこぶる順調だった。

 イダンリネア王国を出発し、現在地はミファレト荒野。

 迷いの森はもうすぐだ。そこには魔女が隠れ住んでおり、奇病の手がかり、もしくは薬そのものが手に入るかもしれない。

 助けたいし、救いたいし、諦めたくもない。母親のことも、この傭兵のことも。

 歩け。内側から湧き上がる闘志を糧として、左足を小さく踏み出す。

 途端、予想通りの激痛が脚部に走る。多数の針を四方から打ち込まれたような鋭い痛みゆえ、抗えるはずもない。

 痛い。

 いたい。

 イタイ。


(足がっ⁉ くぅぅ……、そ、それでも……、それでも!)


 脂汗を流しながら、立ち止まって震え続ける。荷物を手放し泣き崩れたいのだが、この少年は限界を超えてもなお我慢を選ぶ。

 進め。背中のエルディアはまだ息をしている。意識はなさそうだが、それでも生きている。だからこそ、諦めるにはまだ早い。

 西を目指す。その方角にこそ、目的の場所がある。

 重い。

 きつい。

 耐えられない。

 エルディアを支える両手。もはや感覚は失われ、今にも落としてしまいそうだ。

 二人分の体重を支えながら歩く両脚。損傷具合は著しく、本来ならば立っていることさえままならない。

 それでも立ち止まらない。

 エルディアを担ぎ、一歩ずつ歩みを進める。

 ゆっくりと。急いではいるのだが、そのペースは老人よりも遅い。

 それゆえに、隻腕の巨人は嘲笑う。小さな人間がよろめきながらも敗者を運んでいるのだから、その姿は滑稽だ。未だ横切ることすら出来ておらず、このままでは追い抜かれるよりも先に魔法が効果を失うだろう。


「ガッガッガッ」


 笑わずにはいられない。薄緑色の巨体を揺らし、大口を開きながら人間を見下す。

 逃げることすらままならない人間。

 返り討ちにあった人間。

 どちらも逃がすつもりなどない。虫を踏み潰すように、容赦なく殺すつもりでいる。


(このままじゃ……)


 逃げきれない。白紙大典もついに悟る。

 グラウンドボンドは後二回使用可能だ。

 しかし、今のままでは意味がない。一分程度の延命でしかなく、状況の打破とはおおよそ言い難い。


「ぐ……、グラウンド……ボンド」


 未だ諦めていない人間が一人。

 巨人は目と鼻の先に立っており、微笑を浮かべながらその歩みを見下している。

 二回目の弱体魔法から三十秒が経過しようとしていた。ならば、三度目の詠唱で拘束し直すまでだ。

 無意味な時間稼ぎに、傷だらけの巨人は悔しそうな表情を浮かべる。しかし、先ほどのように取り乱すことはなく、ウイルを睨み続けるその姿はあくまでも冷静だ。

 ふらつきながらも、ゆっくりと歩き続ける。ついには巨躯を横切り、ここからは追われる立場として逃げ続けなければならない。

 だが、遅い。あまりに遅すぎる。

 ゆえに魔物は焦ることなく、つまらなそうに時間切れの瞬間を待ち続けられる。


「ハァ……、ハァ……、ハァ」


 呼吸を乱しながら苦悶の表情を浮かべ、それでも進むことを止めないウイル。

 体が鉛のように重い。その上、エルディアはそれ以上の体重だ。

 右足をわずかに持ち上げ、ずらすように前へ。

 左足を少しだけ浮かせ、ほんの少し前へ。

 その繰り返しだ。余裕など一切なく、この瞬間にも彼女に押し潰されてしまいそうだ。

 耐えられない。

 しかし、耐えなければならない。

 助けたいと思ってしまったのだから、その欲求を叶えるため、祈るだけでなく、痛みと苦しみに耐えて足を動かす。


「ハァ、ガハッ……、ハァ……」


 顔を前へ向ける気力もない。大口を開けて、汗と涎を垂れ流しながら、必死の形相で彼女を背負い続ける。

 弱音を吐きたい。

 諦めてしまいたい。

 そういった負の感情が脳裏をよぎるも、この少年は一瞬で振り払う。

 その先に待つのは死だ。背後の魔物が手ぐすね引いて待っている。

 嫌だ。

 死にたくない。

 嫌だ。

 死なせたくない。

 どちらも本音だ。そして、願望だ。

 だからこそ、自分の体がどうなろうと守り切りたい。


「ガウ……?」


 その異変に、誰が気づいたのか。

 先ずは隻腕の巨人だ。離れていく人間の歩みが止まらないばかりか、少しずつ加速しているように思えてしまった。錯覚かと勘繰り改めて凝視した結果、間違いではないと気づく。

 次いで、白紙大典。足音のテンポが早まっており、その理由を力尽きたがゆえの転倒の前触れかと思ったが、そうではないと知る。

 足取りが違う。先ほどまでは引きずるように歩いていたが、今は前へ進もうという気概で満ち満ちている。


(この子に……、何が?)


 わからない。予想すら出来ない。

 しかし、何かが起きている。

 当の本人が知らぬまま、その瞬間が訪れていた。

 開花の瞬間だ。

 足の痛みの理由は、ウイルの分析通り、筋肉の断絶や骨折によるものだ。ゆえに、二歩目はおろか立っていることさえ本来なら不可能なはずだった。

 しかし未だ、その歩みは止まることなく続いている。

 その理由を少年自身は全くわかっておらず、思考を巡らせる余裕などないのだから、彼女を背中に乗せたままががむしゃらに二本の足を動かし続ける。

 ひ弱な骨はひび割れ、本来ならば悪化の一途をたどるはずだった。わずかな筋肉も負荷に耐えられず、体を支えられないほどに損傷した。

 破壊された肉体。ならば、再生させるまでだ。

 これは治療ではない。このタイミングで、少年の体は急成長を開始する。そのための下積みはしっかりと蓄えられており、それをいっきに消化する。

 彼女のおかげだ。その手法は荒々しかったが、今となっては間違いではなかったと証明された。

 圧縮錬磨。

 ウイルはここに至る道中にて、何十もの魔物を殺してきた。もちろん、エルディアが魔物を弱らせてくれたおかげであり、とどめを刺すことでトレーニング以上の成長が見込めた。

 残念ながらその成果は感じられず、体力だけは向上したが精々それくらいだ。

 足りていなかった。急激な成長を受け入れるだけの受け皿が、その体には備わっていなかった。

 そういう意味では今もそれは大差ない。全身に脂肪を蓄え、おおよそ運動には適さない体。

 それが今、破壊されている。筋組織は傷つき、骨に至っては亀裂まみれだ。

 危機的状況だが、肉体はこの非常事態を好機と捉え、成長を促し始める。

 痛んだ肉は修復されながらも成長し、骨は再結合と共に補強される。

 急激な成長だ。それに伴う痛みもそれ相応なのだが、ウイルは歯を食いしばって耐え続けている。

 魔物の命と血肉を糧に、少年は子供から傭兵へ変化する。

 まだまだ未熟だが、仲間を一人助けるだけなら可能なはずだ。

 体の変化はそれだけに留まらない。

 朝と昼に食べた食事は消化し終えており、成長と運動を持続するためにはそれ以上の燃料が必要だ。

 ならば、新たな代替エネルギーを消費する。

 貴族時代にたっぷりと貯えた脂肪。それを今、この場でいっきに燃焼する。

 消化と昇華。

 ウイルの肉体は加速度的に進化し、その変化は二人をその先へ運び続ける。

 無我夢中の前進。心なしかエルディアの重さも気にならなくなり、少年の足取りはいよいよ徒競走のようだ。

 軽い。

 体が軽い。

 気づけば顔は正面へ向き、荒野を風と共に駆けている。

 頬や首回りはすっかり細まり、出っ張っていた腹も真っ平だ。

 彼女の太ももを両手でしっかりと支えながら、傭兵は跳ねるように走り続ける。

 体はまだ痛い。しかし、今となっては心地の良い刺激だ。背中の荷物が落ちないよう、ある程度の傾斜を維持しながらも、少年は前だけを向いて風を抜き去る。

 既に道を踏み外した。ならば、どこまで行けるか試すだけだ。

 家を飛び出し、殺し合いの世界へ。

 貴族から庶民へ。

 庶民から傭兵へ。

 彼女のおかげでここまで来ることが出来た。

 ここからは自分の足で彼女を運ぶ。

 守られる側から守る側へ。そのための力も、なにもかもが彼女のおかげだ。

 弱かった自分に別れを告げて、今日からは胸を張って生きていく。

 後戻りなど出来ない。そのつもりもない。

 傭兵として生きていく。

 これはそのための第一歩。

 エルディアを守る。

 二人で逃げ切る。

 だから走る。その場所はもう目の前だ。


「……来たか」


 背後からの轟音。それは巨大な足音であり、グラウンドボンドから解き放たれた巨人があっという間に追いつこうとしていた。

 だが、慌てない。最後の一回が残っているのだから、それを使えば万事解決だ。


(は、早くグラウンドボンドを! 追いつかれちゃう!)


 白紙大典も声を荒げずにはいられない。少年の急成長については未だ理解出来ていないが、それよりも今は後ろの魔物だ。


「いえ、間に合いました。もうゴールです」

(な、何を……?)


 ここは荒野のど真ん中だ。迷いの森はまだ遠く、周囲は地平線の彼方まで不毛な大地が続いている。

 逃げ場などない。そう思って然るべきだが、ウイルの瞳は目的地を既に捉えている。

 ゴールという表現は正しくない。

 一時的な避難場所。

 少年はエルディアを背に乗せたまま、追跡者から逃げるように大地の裂け目へ飛び降りる。

 ミファレト亀裂。この地に存在する特有の地形であり、ウイルは初めからこれを目指していた。

 その幅は決して広くはなく、人間だったら飲み込めてしまうが、それ以上は受け入れられない。

 だからこそ、ここを選んだ。エルディアを背負ったまま、巨人の視界外まで逃げられるはずもない。しかし、この亀裂なら可能性を見出せていた。戦闘の前に見つけられており、ウイルの判断が功を奏した瞬間だ。


「くぅ、グランドボンド!」


 狭く、深い空間へ飛び込むと同時に、その魔法を発動させる。

 ミファレト亀裂の深さは場所によりけりだが、十数メートルを見込めば問題ない。

 その場合、底へ落ちきるまでにかかる時間はおおよそ一秒半。

 対して、グラウンドボンドの詠唱時間は一秒。

 猶予はほとんどなく、少年は弱体魔法を即座に彼女へ撃ち込む。

 途端、閉鎖空間のような細い隙間で、落下物は二人に分離する。

 空中で静止するエルディア。

 一方のウイルだが、多少の減速には成功したもののそのまま底へ激突する。


「ぐふ。いたたた……」


 衝突エネルギーはそのまま暴力となり、地面への激突は両腕で多少なりともいなせたが、それでも唸りたくなるほどの激痛だ。


(なるほど~。魔法でこの子を縛って、落下の衝撃を一人分に減らしたのね)

「そ、そんなところです……」


 本当はエルディアに捕まって、自分も空中で静止するつもりでいた。残念ながらその目論見は失敗に終わるも、擦り傷程度で済んだのだから御の字だ。

 腰を支点に吊るされているように浮いているエルディア。そんな彼女を見上げながら、ウイルはこの場所をあっさりと受け入れる。

 圧迫感さえ伴う、左右を絶壁と絶壁に挟まれた谷の底。

 閉所恐怖症の人間なら発狂するかもしれない。

 小さな子供だったら震えて泣き出すかもしれない。

 だが、この少年は特別だ。優れているのではない。心が既に異常なだけだ。

 傭兵。魔物狩りで生計を立てる者達。そんな生き方を選ぶ人間がまともなはずもなく、ウイルも足を踏み外してしまった。

 その結果がこれだ。横へ両手を伸ばせないほどに狭く、一方で前後には細道が延々と続いている。そんな場所に降り立ってしまったのだから、本来ならば絶望だ。


(あ、そうそう。私もう限界みたい。長く起きてたせいか、あいつから土の魔力を取り返せたからか……、多分、当分の間目覚めないと思う)

(普段と比べるとビックリするくらい起きてましたもんね)

(うん。あ、無事逃げ切れて良かったね~。ここからどう脱出するのかわからないけど、ハクアに会えたらよろしく言っておいて。んじゃ、おやすみ~)

(魔法、ありがとうございました)


 暗闇の中で別れを告げる。一時的なものであろうとそれは悲しく、涙を流すほどではないが虚無感に襲われてしまう。


(さて……と)


 感傷に浸っている場合ではない。やるべきことはまだまだ山積みだ。

 もう間もなくエルディアは解放され、そのまま落下してしまう。たいした高度ではないが、放置は避けたい。


(あ、巨人が離れていく……。ふぅ、作戦成功)


 天技のおかげで魔物の居場所は手に取るようにわかる。隻腕の巨人は茫然と亀裂を覗き込んでいたが、巨体ゆえに自身は入ることが叶わず、悔しそうに立ち去ることを選ぶ。

 そもそも底の見えない裂け目に人間が落ちたのだから、生き延びたとは到底思えない。殴り殺せなかったことは悔しいが、抹殺という使命は果たせたのだから次の獲物を求めて歩き出す。


(これで本当に一安心かな)


 脅威は去った。この場所に閉じ込められてはしまったが、地上よりは遥かに安全ゆえ、今はゆっくりとすべきことに取り掛かりたい。

 呼吸を整えながら肩の力を抜いていると、エルディアがついに落下を始める。

 ウイルは体全体を使って彼女を受けとめるも、その衝撃は想像以上だ。全力をもってしても支えきれない。

 やはり重い。身長百七十センチの女性が軽いはずがなく、地面に腰を打ち付けてしまったが、痛みに耐えてエルディアを寝かせる。


(コールオブフレイムは……使えない)


 魔源は既に空っぽだ。グラウンドボンドを四回使ったからだが、無事ここに避難出来たのだから想定通りでもある。

 そもそも拳に炎を灯しながら手当など出来るはずもない。マジックバッグから小型ランプを取り出し、スイッチを押し込めばこの場は光に満ちてくれる。

 頭上の細長い隙間からは太陽光が差し込むが、地下十メートルまではぼんやりとしか届かない。体を休めるだけなら問題ないが、負傷者の手当となると光量不足だ。


「し、失礼します……」


 卑猥な行為ではないのだから恥ずかしがることはないものの、ウイルは彼女のロングスカートをそっと持ち上げ、その部分を露出させる。


「う! これは……」


 白紙大典が眠りについてしまった以上、この発言は独り言だ。自然と言葉が漏れてしまうほどに、その惨状は痛ましかった。

 嚙み千切られた右足。膝関節のやや下部分で切断されており、エリクシルのおかげか少しだけ皮膚が再生してくれてはいるが、断面は未だ覆われてはいない。

 赤黒い肉とピンク色の骨が露出しており、出血も継続中だ。勢いはいくらか弱まっているが、このままでは血の池がこの場に作られてしまう。

 止血が必要だ。

 マジックバッグから未使用のタオルを取り出し、一枚、二枚と傷口に押し当てる。ブシュッと血液が噴出し、白い生地が瞬く間に赤く染まるも、少年は眉一つ動かさない。

 念のために購入していた包帯を取り出すと、赤色のタオルごと彼女の右脚にグルグルと巻いていく。応急手当と呼ぶには拙いが、手持ちの備品ではこれが限界だ。

 後は祈るしかない。エルディアの生命力が彼女自身をその時まで生かし続けてくれることを。


(急ぐしか……ない!)


 ここからは時間との闘いだ。

 流れ出た血液は多量ゆえ、本来ならば人間を死に至らしめる。エルディアが生き長らえている理由は、血液の生成量が常人を上回っているからに他ならない。

 だが、限界はあるはずだ。それが数分後なのか、数時間後なのか、それは誰にもわからない。

 だからこそ急ぐ。あの巨人からは逃げ切れたのだから、計画通りに次のステップへ移行する。


(僕のことは後回しだ)


 赤く汚れた手でランプを鞄にしまい、ゆっくりと立ち上がる。体中の痛みは未だ健在なのだが、眼下の彼女と比べれば些細なものだ。

 マジックバッグを前に抱え、先ほどのようにエルディアを背負う。

 足が痺れるほどには重い。

 それでも不思議と歩けてしまう。


(地上に出ないと。とりあえずはこっちに……)


 裂け目が作り出した狭い地下通路。暗く、肌寒いここを少年は力強く歩く。

 次にすべきことは地上への脱出だ。そのための方法は既に頭の中ゆえ、後はそれを実行に移すだけでよい。

 亀裂に沿っての前進。そうするしかないのだが、今はこれが正解だ。

 道幅が徐々に狭まり、いかに子供と言えどもそろそろ挟まる頃合いなのだが、ウイルはこれを待っていた。


(よし、この辺りでいいかな)


 亀裂の終端はまだまだ先だ。それでもここを選ぶ。

 エルディアを一旦降ろし、一方の壁に背中を預け、正面の壁に両手を伸ばす。

 腕を伸ばしきるにはやや狭いものの、それこそが理想的な幅だ。頭上を見上げて決意を固める。

 隙間から覗く細い空。青色のそこまで目指すつもりはないが、その途中までは登らなければならない。


(障害物はなし、と。後はやるしか……)


 背を壁に付けて腰をズズズと落とす。見えない椅子に座るような姿勢でピタリと止まれば、準備は完了だ。

 うつ伏せのエルディアをゆっくりと持ち上げ、背もたれ代わりの壁に寄りかかりながら彼女の腹部付近を自身の太ももに乗せる。


(いくぞ……!)


 崖登りの開始だ。

 大人を乗せながら這いあがらなければならない。そのための手法がこのやり方だ。

 前後に挟まりながら、這うように上を目指す。

 右手。

 左手。

 右足。

 左足。

 それらを対面の壁に押し付け、ずるりずるりと少しずつ上へずらす。

 四点と背中で二人分の体重を支えなければならず、それに加えて地上を目指すのだから負荷は凄まじい。

 以前のウイルには不可能だったかもしれない。

 裏を返せば、今なら可能なはずだ。

 頬はすっかりへこみ、首回りや腹の脂肪もどこかへ消えた。二の腕も細まり、されど脚の太さは筋肉の発達に伴い上昇した。

 持ち上げる。

 自分の体を。

 エルディアを乗せた自分自身を。

 ヨチヨチ歩きのような動きだが、歯を食いしばり、汗まみれの姿は傭兵そのものだ。


(巨人は! 去った! だったら! 急げ!)


 天技が教えてくれる。隻腕の巨人はすっかりレーダーの範囲外だ。つまりはここから逃げ出す好機であり、エルディアの容態を考えるならばこのタイミングをものにしたい。

 少しずつ上昇する。進行速度は遅いが、大人一人を乗せているのだからやむを得ない。


(僕が! 僕が!)


 守る。そう決意したのだから、泣きごとは言いたくない。

 守られる側も居心地だけは良かった。彼女の後方で見守っていれば、障害がひとりでに排除されるのだから楽な生き方と言えよう。

 だが、ここからは違う。弱い自分とはお別れだ。

 実力はまだまだ足りない。それでも頼りきるという選択肢を排除して、今後は生きていきたいと強く願う。

 されどもう一度だけ。その時が来たら頭を下げて頼むつもりだ。

 それを最後に、独り立ちしたい。

 これはその一歩だ。

 ミファレト亀裂を這いあがる。

 彼女の分もグングン登る。

 ここまでは守ってもらったのだから、ここからは守らなければならない。そんな使命感を燃やしながら、ウイルは四肢を細かく動かして地上を目指す。

 太ももの上で揺れるエルディア。時折ずり落ちそうになるも、足だけで踏ん張りながら手早く支え直し、丁度良い位置へ戻す。

 それの繰り返しだ。

 上へ、上へ。

 その高さは十メートル程度。たいした距離ではないはずだが、大地は未だ遠い。


(きつい! 疲れた! 痛い! だけどぉ!)


 諦めない。

 体力はすっかり空っぽだ。

 成長痛のような痛みは未だ健在なため、苦しさも相まって幼い顔立ちはぐちゃぐちゃに歪む。

 背中も痛い。壁との摩擦で皮膚が破けてしまった。

 それでも止まらない。

 止まっている暇はない。

 最優先はエルディアだ。自身の都合よりも彼女を第一に考えなければならない。

 そして、その瞬間が訪れる。


「くはぁ……」


 光に満ちた荒野。

 どこまでも続く茶色だけの地面。

 到着だ。

 ウイルは太陽の陽射しを浴びながら、ついに地下世界から這い上がる。

 眼下のエルディアを大地へそっと下ろり、自身も登りきると、休むように横たわる。

 疲労困ぱいだ。立つことすら肉体が拒絶する。このまま眠ってしまいたいが、その危険性は重々承知ゆえ、今はぐっと我慢する。

 ゆっくりと立ち上がり、視線を東の方角へ。

 殺風景な地平線がどこまでも続いており、巨人族はおろかミファリザドすら見当たらない。

 少なくとも今は確実に安全だ。

 しかし、あれが戻ってこない保証もない。

 その時は再度、亀裂へ飛び込んでしまえばよいのだが、エルディアの体調を考慮するならば二度目は避けたい。


(ふ~、魔物の反応は……)


 目を閉じ、すっと頭上を見上げる。

 まぶた越しでも直射日光は非常に眩しい。白とも赤とも表現出来る色合いが視界を覆う中、少年は語りかけるようにつぶやく。


「さっき、僕に話しかけてきた奴……。いるんでしょ、空に」


 レーダーに巨人族は映らない。

 地上には一切の反応はない。

 しかし、真上のそれだけは感知済みだ。


「あの時はさんざん話しかけてきたのに、今はだんまりなの? 邪魔しないのなら、僕としては構わないけど……」


 この発言に反応したのか、上空のそれは音もなくどこかへ離れていく。元より微弱な存在感だったが、今では微塵も感じられない。


(消えた。やっぱり、魔物なのかな? だけど、僕達に語りかけて来た……。人間の言葉を話す魔物? そんなの授業じゃ習わなかった……。それこそ、作り話の中にしかいないと思ってたけど……)


 腑に落ちない。

 納得出来ない。

 そう思えてしまう理由は二点。


(何だろう……。なんか違うというか、混じってるというか。魔物っぽい気配なんだけど、ほんの少しだけ人間っぽくもあるというか……、うん、わかんないや)


 人間と意思疎通が可能なことと、独特な気配。傭兵歴が浅いウイルですら、違和感を拭えない。


(白紙大典はなんかわかったみたいなこと言ってたけど、当分起きてくれなさそうだし、僕もその時までこのもやもや感を覚えていられる自信ないしなぁ)


 長時間の起床に伴い、純白の本は長い眠りについてしまった。次に彼女と話せる機会がいつになるかは、全くの不明だ。


(まぁ、いいや。行こう)


 休憩は終わり。謎の魔物はいなくなり、巨人も見当たらない。そうであっても、ここに長居することは悪手なため、エルディアを背負い直してゆっくりと歩き出す。

 吹き抜ける風。

 静寂を打ち消す小さな足音。

 彼女の香り。

 彼女の重さ。

 少年の五感は刺激を受けながらも、瞳だけは前だけを見続ける。

 目指すは西。目的地はその方角だ。

 嵐が去った。

 なんとか乗り切ることが出来た。

 されど素直に喜べるはずもない。エルディアが右足を失ったのだから、完治までが少年の旅路だ。

 歩く。

 魔女に会うために。

 薬について教えてもらうために。

 仲間の手当を依頼するために。

 太陽が西へ沈んでいく。

 それを追いかけるように、二人も同じ方角へ進み続ける。

 これは白紙大典が示した道のり。突拍子もないが、疑うことはしない。そう思える理由は医者も同じ情報を示したからだが、そうであろうとなかろうと、旅立つつもりでいた。

 ゆえに、ぶれない。その足取りは過剰な負荷に耐えながらも頼もしい。

 光流暦千十一年。ここに一人の傭兵が誕生した。実力不足は否めないが、己の可能性と伸びしろを信じて励むしかない。

 その後ろ姿はエルディアのせいで隠れているが、それでもなお見違えて見える。

 少なくとも、それにはそう映っている。


(決めた決めタ決メタ! このニンゲンに決めタ! すぐには壊れないでヨ、もう探し飽きたからネ。あぁ、どんな顔するのかナ、ハクア……。想像するだけで興奮すル!)


 レーダーの感知範囲外から。

 どこまでも見渡せる上空から。

 赤く揺らめきながら、小さな小さな人間を見下ろす。


(まだまだ待ってあげル。ワタシもアルジも退屈には慣れっこだからネ)


 それは肌色の両手で顔を覆う。


「……一年? 十年? 百年? そんなに長くは生きられないカ。ファファファファ!」


 笑う。

 声高々に独りで笑う。


(もう少しだけお待ちくださイ。ついに見つけましたヨ、最高の遊び相手ヲ!)


 客席からの眺めは最高だ。

 舞台はまだ始まったばかりだが、既にクライマックスが待ち遠しくて仕方ない。

 それでも待つ。

 今は待つことが出来る。

 その時がいつ訪れるかはわからないが、主役を見つけられたのだから今は素直に喜ぶ。


「実に……愉快」


 大空に響く笑い声。

 女は笑う。

 この人間こそ適任者だ。

 だからこそ、心から喜ぶ。

 幕は上がった。

 選ばれた人間の名はウイル・ヴィエン。台本すら与えられず、気づけば舞台に立たされていた。

 ただの子供にそのような資格はないのだが、純白の本と出合ったことで全てが変わった。

 劇を満喫するオーディエンス。特等席からの眺めは格別なのだろう。その証拠に心底楽しそうだ。

 舞台の上にはたったの一人。役者は未だ揃わずも、無人でないのなら物語は始められる。

 観客もたったの一人。惜しみない拍手を送るその姿は、まさしく道化師のそれだ。

 今はまだ無名の子供。その名を知る者は少ない。

 しかし、いつの日か知れ渡る。

 大衆に。

 傭兵に。

 軍人に。

 貴族に。

 英雄に。

 王族に。

 魔女に。

 魔物に。

 その青年の名はウイル・エヴィ。救世の傭兵として、その名は歴史に刻まれる。

 今はまだ、スポットライトに目を細めるだけの子供でしかない。

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