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「う……」
朦朧としたまま、私は腕の力を頼りに上半身を起こした。固い床に押し付けられていたほっぺが少し痛い。
気を失っていた……どれくらい?顔を上げると、目の前にはドロドロとした肉の塊があった。それはゆっくりと溶け出し、茶色の汗がじんわりと染み出していく。血と……濃密な土の臭い。それが何なのかはよくわからないのに、不思議と肌馴染みのいい匂いがした。
薄れていく懐かしい気配を惜しんで、思い切り空気を吸い込む。何だか息がしづらいことに気づいた。喉に手を当てると、ヌルヌルした血の感触。肉の裂けているのを指先で感じる。そうか、それで息がしづらいんだ。
痛みを感じたが、それ以上に寒気の方がひどい。力が入らない。変な汗がこめかみを伝う。貧血を起こしているみたい。寒くて頭がぐるぐるする……。でも……立たなきゃ。
顔を上げた。祭壇に眠るお母さんが見える。
「おかあさ……」
立ち上がろうとして、バランスを崩した。
「!」
倒れそうになった私を支えたのは。
「…………」
「アーウィン……」
アーウィンが私の腕を掴んでいる。ふっと肩から力が抜けた。ヒトでもヒトでなくても、私の側にずっとあった顔……。ふらつく私をきちんと立たせる。大丈夫。私は立てる。
「アーウィン、良かった。お母さん、無事だったの……」
裂けた喉元から血と息が漏れる。はっきりしない声になってしまった。アーウィンはそれでも微笑んだ。嬉しい。いつもの笑顔だ。ちょっと皮肉っぽくて、でも穏やかな微笑み。
「あの女はあなたを生んでなどいない」
「……えっ?」
唐突に予想外のことを普通に言われたので、一瞬自分が言葉を忘れてしまったのかと思った。
「聖女アーシュラ。百四十年ほど前、央魔の血を啜って”村”を追い出された女だ」
「…………何言ってるの?」
おうまのち?むらを追い出された?
彼は祭壇のお母さんを振り返る。その横顔に冷たい色が浮かんだ。
「……アーウィン」
私は彼を呼ぶ。けれど彼女に視線を投げたまま、皮肉っぽく呟いた。
「まあ、その力と知識は『聖女』と讃えられるだけのことはあったが……」
「アーウィン!」
言いしれぬ不安を覚えて、アーウィンの両腕を強く揺さぶる。
「こっち見て、アーウィン!どういう……!」
ゆっくりと目を合わせた。黒い目が赤く塗り変わっていく。何かに引きずられるように、赤い瞳の奥を見つめた。焼けつく赤色。ふいに網膜が焼かれる痛みを覚える。
「!!」
思わず目を瞑った瞬間、私の脳は赤い波に飲まれた……。
世界は暗かった。薄暗い世界で眠っている。いや、うつうつと起きていたのかもしれない。何か分厚いもので全身を包まれている感覚がして、体を動かそうとしてみても重くて動けない。けれど体にのしかかる重みは、安心させてもいた。
世界には音も映像もなく、ただ匂いが。微かに届く色々な匂いが、私を包んでいく。水の匂い、北風の匂い、森の匂い、墓土の匂いーー血の臭い……。
やがて、暗かった世界に光が差した。厚い繭がひび割れて、次第に隙間から光が漏れてくる。私を包み込む何かが、乾いて剥がれ落ちていくのを待った。重みが失せて目を開けると、頬を何か乾いたものがパラパラと滑り落ちていく。土の塊だっただろうか?それよりも、目の前にはヒトが……女の人が……。
ーーレナ。
ーーお母さんよ。
そのヒトはそう言った。
おかあ、さん?
ーーそうよ。レナ。
れな?
ーーあなたの名前よ。あなたはレナ・タウンゼント。七歳の女の子よ。
私は私を見下ろす。れな……おんなのこ……?そうだったんだろうか。そうだったかもしれない。
乾いた砂が水を吸うように、急速に言葉が染みていく。私が作り上げられていく。
ーーそうよ、レナ。
ーー私はあなたの母親。それからーー
女は横の男を指差した。男の人は、赤い目で私を見ている。初めて認識した赤はとても鮮やかで、私の白い心にくっきりと染みた。
ーーこれは……そうね、お手伝いさんだわ。アーウィンというの。
あーうぃん?
その顔はなぜか懐かしい気がして、口を開きかけて……けれど何を言いたかったのか、途中で分からなくなる。赤い目の人の後ろに、人のカタチに盛り上げられた土の繭が見えた。……あれもそのうち、乾いてひび割れるのだろうか?
ーー私たちは家族なの。
女の人は私の頬を両手で包む。じんわりと頬が温もっていく。
かぞく。
ーーそうよ、レナ。家族なの……。
そのひとがわらうから。頬をなでる手があたたかかったから。私はとても幸福な気分になった。だから私は、『レナ』は答える。
はい……おかあさんーー
「そ……んな……」
頭の中に蘇った光景が私を襲った。
「そんなの、そんなの嘘よ!!」
私は誰?
「私は私だわ!!」
自分に叫ぶ。あの時、母親と名乗った人物は誰なの?
「お母さんはお母さんよ!!決まっているじゃない!!」
「レナ、落ち着きなさい」
アーウィンが差し伸べた手を、乱暴に振り払った。
「いや、嫌あああっ!!」
「レナ!」
暴れる私の両肩を押さえて、自分の方を向かせる。
「あなたはあなただ。怯えてる必要はない。例えあなたが」
鈍い衝撃に彼の赤い目が揺れた。
「あ……」
私の両肩を掴んでいた手が滑り落ちる。