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幼い頃からあこがれた大投手が、自分を打ち取るために入念な投げ込みを行っている。
ツトムは花塚茂の姿を胸に刻み、そのうしろに広がる球場全体を見渡した。
……俺の野球人生において、これほど劇的な場面はそうないだろうな。
そうした実感が、びりびりとツトムの肌を刺激した。
ツトムは一歩一歩噛み締めながら打席へと歩いていく。
バッターボックスの手前で一度立ち止まり、バットの感触をたしかめ軽い素振りをする。
……?
これまで数万回と繰り返したはずの素振りが、いつもと感触が違った。
緊張しているのか……。
ツトム大きく深呼吸をしてからバッターボックスに立った。
ナンカイ! ナンカイ! ナンカイ!
呼応するように球場が大声援でツトムを迎えた。
18メートル44センチ先。
あこがれの男が、ツトムをまっすぐに見つめている。
大投手と呼ばれる男の顔からは、あらゆる感情が削ぎ落とされている。
百戦錬磨の男が放つつかみどころのない視線と、この身に訪れた現実の重さ。
ツトムは混乱した。
ツトムは一度バッターボックスを離れた。
ドームの高い天井を見あげてから、再び白線のなかに入る。
いつものように眉間に人差し指を当てると、観客席からどよめきがあがった。
「待ってました!」
「きゃーっ! かっこいい!」
眉間に指を当て、悩ましげに天を仰ぐポーズ。
ツトムにとってこの動作は、能力使用のための下準備にすぎなかった。
しかし9月の失神事件以降、それはツトムのトレードマークとなっていた。
高い背丈と端正な顔立ち。
眉間に指を当てて天を仰ぐ悩ましげなポーズ。
そして気絶。
野球選手としての正当な評価を望むツトムの意志とは裏腹に、キャラクターとしての人気だけが先行していた。
ツトムにとっては、この打席こそがそうした評価を断ち切る最大の舞台だった。
ツトムは眉間に当てた指を離し、目を閉じて白石ひよりの豊満な胸を浮かべた。
決して近づかず、決して触れず……。
一定の距離を保ったまま立つことで、白石ひよりは石灰となって消えた。
ツトムは目を開けた。
透き通るスタジアムと、超満員の観衆の姿が、美しい絵画のように広がった。
スタンドの全方位から応援の声がこだます。
ツトムの応援であり、花塚投手への応援だった。
投手と打者を取り囲む大観衆の声と、吹奏楽団が奏でる応援歌。
その中心で揺るぎない音を立てるのは、安定した心の鼓動。
花塚が手にしたロージンバッグをマウンドに落とした。
しかしなぜかその落下速度が、不自然なほど遅く感じられる。
いつもとはちがう感覚に、脳内で疑問が渦巻いた。
ちょっと落ち着きすぎてやしないか……。
そんな疑問が浮かんだ。
再びバッターボックスを外し、澄んだスタジアムの空気を切り裂くように3度素振りをした。
それでもなお、球場全体の挙動がいつもより遅く感じられた。
まさか新しい能力?
そんなはずはないだろう。
そうした思いだけが、いつもの速さで駆け抜けていった。
バッターボックスに立ち花塚茂に焦点を合わせ、その後ろにある球場全体を視野に収める。
そのとき、ツトムの耳にはっきりとした異変が現れた。
野球場で聞こえるはずのない、笛の音のような甘く透明な声が耳にこだました。
ようこそ――。
世界がツトムに語りかけた。
笛の音に似たその音は、ツトムの鼓膜を震わせたあと、体の奥底へとゆっくり浸透するように沈んでいった。
確実性に富んだその音は、体の中心部にたどり着いてはさりげなく根付いた。
応えるように、ツトムはうつむいて小さな笑みをたたえた。
世界は、さらに語りかけた。
――今こそが、野球で立身すると決めたあなたにとって、人生最高の瞬間。
――すべての過去がここに集い、すべての未来へとつながる接点としての現在。それが、今。
ツトムのなかの確固たる意識が、その声を逃さずに聞いていた。
細胞のひとつひとつが、失われていく時間をかき集め、現在という時間を永遠に刻もうとしていた。
これまで過ごしてきた時間が、まるで嘘であったように……。
ここに流れる時間こそが、命を燃やす本来の速度であるように……。
あんなふうに生きたい、あんなふうに生きていきたい。
そう思って蓄えてきた人生が、ここに凝縮されたようだった。
ツトムと花塚は、濃密な時の狭間にその身を置いた。
打てる――。
揺るぎない心の声がそうささやいた。
自己暗示を目的とした顕示の咆哮ではない。
まるで川辺で釣りでもしているような、穏やかなささやきだった。
ツトムの体を司るすべての細胞が、適切な配列についたのを告げる合図のようだった。
ツトムは花塚の所作に照準を合わせていく。
適度に力を込め、また適度に力を抜いた。
花塚は腰をかがめ、捕手のサインに何度か首を横に振ったあと、コクリとうなずいた。
バッテリーはツトムを打ちとるための意思統一を終えた。
花塚が両手を天へとかざし、大きく振りかぶった。
第一球。
内角高めのボール球。
ツトムは見送った。
ミットに叩き込まれた鋭い音を、聴覚の端が捉えた。
第二球。
ツトムの読み通り、低めの変化球だった。
ツトムはコンパクトにスイングしたが、球は予想したより大きな曲線を描いて、バットは空を切った。
1ボール1ストライク。
花塚のうしろを支える7人の野手が、浅い守備位置についている。
今季、ツトムの本塁打は1本。
小さく安打をまとめるツトムの打法をわかっての配置だった。
ツトムは背筋を伸ばして一呼吸おいた。
立ちはだかる7人の守備陣を見つめた。
どこか、一箇所でいい。
約7センチの球が、彼らの手のおよばない隙間を抜ければいいだけ。
ああ、なんだ。かんたんじゃないか……。
ツトムはグリップを締めてバットをかまえた。
花塚が大きく振りかぶった。
第三球、第四球。
ツトムの選球眼がここで光を放った。
球はストライクゾーンから3センチほど外れた。
3ボール1ストライク。
バッター有利なカウントにもち込むことに成功。
球場には歓声と悲鳴とが入り混じっている。
追い込まれたのは花塚のほうだ。
残る2球をすべてストライクゾーンに投げ込み、なおかつツトムを打ち取らなければならない。
いまだ能力を使用していないツトムにとって、このうえないほど理想的な状況だった。
残る2球が通るのは、ストライクゾーンという限定された区画。
ツトムは自身の能力を使って、おなじ球種を最大3度も見ることができるのだ。
マウンドに立つ大投手花塚の表情が変わることはない。
追い込まれたようでもあり、また秘めたる策を残しているようでもあった。
花塚の勝負球は、150キロ台後半の剛直なストレート。
残る2球の内、いずれかはストレートで勝負にくるだろう。
その球を一度見送ったあと、能力で時間を戻して、打ち返せば勝負は決するのだ。
大歓声はいつしか心地よい響きとなって、ツトムを包んでいた。
花塚が投球フォームを整えて、大きく振りかぶった。
ツトムがグリップ位置をストライクゾーンのうえに置いた。
日本一を賭けた歴史的な5球目が放たれる。