コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「南海さん。少々お時間よろしいでしょうか」
美濃輪雄二の声は低く抑揚がなかった。
加えて事務的であり、ツトムへの興味などまるで感じられない。
「よくぼくの名前を知ってますね。ファンでもなさそうなのに」
「ええ、ファンではありません」
「ではどういったご用ですか」
「私はある仕事のために、あなたをずっと待っていました。ようやくその機会が巡ってきたので、こうして声をかけさせていただいたのです」
「仕事なら、球団を通してもらえますか。プロ野球選手は個人事業主ではありますが、球団管理化にある商品のようなものですので」
「これは失礼しました。私にとっての仕事でありますが、南海さんにとってはそうではありません」
「おっしゃる意味がよくわかりません」
「異なる人生を――」
美濃輪の目が鋭く光った。
「はい?」
「プロ野球選手である南海ツトムさんに、異なる人生の選択肢を提供するために、ここに参ったのです」
「異なる人生の選択肢? なら、ならなおさら球団を介してもらわないと」
「いえ、個人的にお話ができればと思っています」
「いきなりですいませんが、お断りします。ぼくはいま野球のことしか考えてません。再就職の手引とか起業のお誘いなど、受ける気はありませんので」
ツトムは背を向けて、駐車場へと歩きはじめた。
その直後、ツトムの耳に、低く乾いた声が流れ込んできた。
――あなたは特殊能力者だ。
……トクシュ、ノウリョクシャダ。
背中から聞こえた美濃輪雄二の言葉が、いびつな記号のように脳内で乱反射した。
瞬時に両足がくくり罠にかかったように動かなくなった。
その言葉は、ツトムにとって特別な意味を持っていた。
はなはだ危険であり、また容易に看過できる言葉ではない。
空耳であってくれ。
そう願いながら、ツトムは深く目を閉じた。
暗いまぶたの裏に、スッとひとりの女性が浮かびあがった。
そこは体育倉庫――。
白石(しらいし)ひよりが、とび箱のうえに座っている。
体育器具がところせましと並び、石灰が充満している。
窓から差す夕陽を背に浴びた白石ひよりが、まっすぐにツトムを見つめていた。
――ねぇ、わたしの胸……さわってみる?
白石ひよりが、ブラウスのボタンをひとつずつはずしていく。
肌着はつけておらず、白い下着と大きな谷間が目に飛び込んでくる。
ツトムは表情を変えず、まるで果実の査定でもするように白石ひよりの双丘をじっとながめた。
決して近づかず、決して触れず。
時間にしておよそ3秒。
ツトムは一定の距離を保ったまま、白石ひよりの胸を冷静に見つめた。
サラサラッ……。
すると白石ひよりの体は石灰となって、その場に散っては消えた。
目を開けると、心の混乱がさっぱりとなくなっていた。
「いまなにかおっしゃいましたか」
ツトムは穏やかな表情で、美濃輪へと振り返った。
「まったく動揺をなさってないようですね。さすがは厳しいプロの世界で、かけひきをされているだけのことはある」
美濃輪雄二は感情のないまま、深夜の工場機械のように冷ややかに言った。
「本能的に、うしろについてこられると寒気がするんです。対人距離はわりと広いほうですが、あいにく、黒ずくめのスーツは対象外となってましてね」
「これは失礼しました」
美濃輪がわずかにあとずさった。
「ずっとつきまとわれるのは面倒なので、あなたの仕事とやらを話してみてください。ただし手短に、かつ端的にお願いします」
ツトムは手のひらを天にむけ、美濃輪の発言をうながした。
ツトムと美濃輪雄二は、半ばにらみ合うような形で立っていた。
ワアアアァァッ!
その時、球場側から大歓声があがった。
「キャアアッ! ハルキさん!」
「谷山!」
球場正面口に谷山ハルキが現れたためだった。
華やかなスター選手の登場に、それまで気ままに点在していた人々が、磁力を受けた砂鉄のように集まっていく。
池畑洋一を囲んでいた何人かのファンも、一目散に谷山ハルキのもとへと駆けだした。
「彼のこと、知ってますか? 谷山ハルキ」
「南海さん以外は誰ひとりとして知りません」
「手短で端的ですね」
とツトムは言った。
「ぼくと谷山ハルキは同期入団でね、高校時代はライバル関係にあったんですよ。でもあいつは今年、ついに一億円プレイヤーの仲間入りを果たすでしょう」
「一億円」
美濃輪雄二が興味なさそうに言った。
「つまり今ぼくが二軍にいるのと、あいつが二軍にいるのとでは本質的な意味がちがうんです。ぼくにとっての戦いの場である二軍は、あいつにとっては休息と調整の場です。
あの歓声を聞いてわかるように、プロ野球は完全実力主義の世界です。掲げている看板はおなじでも、そこには厳格なヒエラルキーが存在します。だからぼくには一刻の猶予もない。
美濃輪さん、この意味がわかりますか」
「南海さん。私は野球についてはなにも知りませんし、興味もありません。私がここにきた理由は、スター選手の神々しいお姿を拝顔するためではないのです」
「あくまで標的は、ぼくひとりというわけですか。球団はまったく関係がないと」
ツトムは谷山ハルキという閃光から目を背けるように、駐車場へと歩きはじめた。
美濃輪雄二は球場に一度も目をくれず、ツトムのあとにつづいた。
ふたりは言葉を交わすことなく駐車場に入り、ツトムの愛車ジャガーXFのまえに立った。
「さて、あなたのお仕事とやらを聞かせてもらいましょう」
ツトムは車のフチに指をかけ、かぶったホコリを確認した。
「手短に端的に、でしたね」
「そして、さっさと」
「わかりました。南海ツトムさん。あなたは秘めたる能力をもつとくべつな方です。あなたがもつその力は、他の誰にも備わっていないものであり、またこれまで口外することなく隠しつづけてきた。間違いありませんか?」
「わざわざ人を引き留めておいて、まさかの空想物語ですか」
ツトムはこれ見よがしに首をかしげた。
「あなたにとっては空想ではない。ちがいますか?」
「あれっ? ……鍵がないな」
ツトムは掲げたバッグに手を入れてスマートキーを探しはじめた。
無意識に手が震えを帯びていて、とっさにバッグのなかに隠したのだ。
「いま私の言ったことを、ゆっくりと解釈していただいてかまいません。見ず知らずの人間にいきなりこんなことを聞かされたら、誰であれ不信感を募らせるものでしょうから」
「ぼくに特殊な力なんてありませんよ。たった一年間ですが一軍で活躍をし、以来表舞台から消えた。ただそれだけです。
……ってか、そんなことより鍵が見当たらないなぁ」
そう言いながらバッグをあさった。
手の震えが徐々に全身へと広がっていて、ツトムは思わず深く目を閉じた。
頭に白石ひよりの豊満な胸が浮かぶ。
石灰の舞う体育倉庫で、白石ひよりがとび箱のうえに座っている。
ツトムは露わになった白い下着を一定の距離から眺めた。
決して近づかず、決して離れず。
おおよそ3秒。
確固たる冷静さを保ったことで、白石ひよりは石灰となって大気中に散った。
ツトムは再び落ち着きを取り戻した。