私のお兄ちゃんは引きこもりだ。
大学受験を失敗してから、家を出ることはおろか部屋から出ることも無くなってしまった。
最初は気にかけていたお父さんとお母さんも、今ではすっかり諦めムードで、毎日、ご飯を作っては持って行くだけ。
これといった会話もしていない。
かくいう、妹の私もお兄ちゃんの顔をもう何年も見ていないし、声も聞いていない。
最後にお兄ちゃんの姿を見たのは、いつだろうか。
(……三年前?)
珍しく部屋から出てきて、冷蔵庫を漁ってる姿を深夜に目撃したあのとき以来、私はお兄ちゃんを見ていない。
隣の部屋だけど、ほとんど物音もしないし、話し声も聞こえない。
ずっとゲームをしているようだけど、本当は何をしているのか全く知らない。
それはきっと、お母さんもお父さんも一緒だと思う。
良いお兄ちゃんだった。
私とは六つ離れていたからだろうか、よく面倒を見てくれたし、勉強も教えてくれた。
優しくて自慢のお兄ちゃんだった。
医者になることを目標として勉強していて、中学校、高校と学年でトップの成績を収めていた。
両親にとっても自慢の息子だったはずだ。
みんながみんな、お兄ちゃんが医者になると信じて疑わなかった。
それが、たぶんプレッシャーになったのだと思う。
医大に二回落ちたところで、お兄ちゃんの心はポッキリと折れてしまった。
それっきりだ。
それっきり、引きこもってしまった。
両親はそれをきっかけに高望みしなくなり、私には確実に合格する大学へ行きなさいと言っている。
お兄ちゃんのことは嫌いじゃない。
今でも時々心配になる。
知らないうちに死んでるんじゃないって。
だから、朝起きて、廊下に出て、空っぽの食器を見ると安心する。
ああ、良かった、生きてるって。
今は、お兄ちゃんにどう声を掛けたらいいのかわからないけれど。
いつか、きちんと、両親と一緒に向き合えたらいいな、と思っている。
「夏奈(なつな)!おはよ!」
教室に入ると真っ先に声をかけてくるのは、幼馴染の松本恵那(まつもと えな)だ。
「おはよう、恵那(えな)」
「また物騒な事件があったね」
「え?そうなの?」
「え?知らないの?めっちゃ有名じゃん」
恵那は信じられないという顔をするが、私は「知らないなぁ」と返す。
「恵那、ダメだって。夏奈は私たちと違って塾で忙しいんだから」
そう言いながら近づいて来たのは、彼女も幼馴染の高橋叶(たかはし かなえ)だ。
「叶(かなえ)、そうかもしれないけど」
「で?事件って何?」
「立て続けに殺人事件が起こってるの」
声のトーンを落として恵那は言った。
「え、うそ…」
「嘘じゃないって。今朝見つかった死体で三人目、だっけ?」
「うん、そう書いてあったね」
「三人も…」
「一人目はOLさんで、昔三人で遊んでた公園で亡くなってて。二人目はサラリーマン、ちょっと前まで叶がバイトしてた居酒屋の裏の空き地で亡くなってて。今朝見つかった三人目は大学生で、自宅で亡くなってたんだって」
その話しを聞いて私は愕然とする。
「犯人はいまだに見つかってないし、通り魔の犯行かもしれないって噂だから夏奈は塾帰り、気を付けてね」
「う、うん。二人も気を付けてね」
「しっかし、物騒だよねぇ」
それから恵那が他愛の無い話しをしていたが、私の耳には届かなかった。
そんな恐ろしい事件が起こっているなんて、今の今まで知らなかったからだ。
恵那から聞いた話しが気になって調べてみると、恵那が言った通りのことが書かれていた。
ネットニュースでも話題になっていたし、SNSでもその話題はしばしトレンドに上がっていた。
むしろ、今まで自分が知らなかったことの方が驚きだった。
亡くなった三人に共通点は見られず、通り魔的な犯行だと言われている。
学校でも注意喚起がなされ、登下校時は出来るだけ複数の人間と行動するよう言われた。
ギィ……
バタンッ……
「今の音…隣の部屋から?」
それは、確かに扉が開いて閉じる音だった。
「お兄ちゃんが部屋から出てきたのかな?こんな遅い時間に……?」
時計を見ると時刻は夜中の1時を少し過ぎたところだった。
パタンッ……
「今の音は…家を出て行く音?」
気になって部屋を出る。
トイレに明かりはついていない。
足音を殺して一階に降りてみたが、台所にもお風呂場にも明かりは点いていなかった。
(どこに行ったんだろう……?)
そうは思ったものの、家を出てお兄ちゃんを追いかける気にはなれず。
そのまま、部屋へと戻ることにした。
コンビニは徒歩五分圏内にある。
何かを買いに行ったのだろうと思ったけれど、それから三十分が経っても、一時間経っても帰って来る様子は無く。
いつ帰ってくるのだろうかと考えている間に、私は眠りに落ちてしまった。
□
翌朝、起きるといつも通り廊下に空っぽの食器が置かれていた。
昨夜、様子を見に部屋を出たときには無かったので、お兄ちゃんは帰ってきているのだろうと思った。
(お兄ちゃんも、外出するんだ……)
むしろ、どうして今まで気付かなかったのか不思議なぐらいだ。
(でも、それっていいこと…だよね?)
真夜中だけれど外出しているということは良い兆候だと思う。
(でも……)
何故か脳裏を過ったのは、立て続けに起こっている殺人事件のことだった。
(お兄ちゃんが巻き込まれないといいけど……)
そんなことを考えながら、朝ごはんを食べた。
□
四人目の犠牲者が出た。
商店街で精肉店を営んでいる店主で、私も顔なじみの人だった。
店の裏手で亡くなっているのが見つかったそうだ。
「ヤバいね、これで四人目だよ」
「まだ犯人見つかってないの?」
「怖いよ……」
教室のあちこちから不安げな声が上がっている。
それもそうだ。
近くに殺人犯がいるかもしれないと考えるだけで、外を出歩くのが億劫になるほどだ。
両親も、犯人が捕まるまでは塾に行くのを止めなさいと言ってきた。
でも、それは私だけではなく多くの生徒がそうしているようで、塾の先生たちはリモートで授業を受けられるよう手配をしてくれたのが有難かった。
ギィ……
バタンッ……
(あ、まただ……)
時計を見ると時刻は夜中の1時半。
少し遅れて玄関が開閉する音がした。
(また、お兄ちゃんが出掛けた……)
コンビニに行ったのだろうか。帰って来るまで起きていられるだろうか。
(帰ってきたら声をかけてみる?…でも、なんて?……最近、殺人事件が相次いでいるから気を付けてっていうべき?だけど、せっかく外出できるようになったのに、それを邪魔するようなことを言っても……)
また、引きこもってしまってもいけない。
(……ううん、でも、やっぱり声はかけよう。夜中に外出するのは危険だし…)
そう思ったのだが、この日も待てど暮らせど帰って来る気配は無く。
結局、私は睡魔に負けて3時過ぎにはベッドに入り、あっという間に眠ってしまった。
翌日、いつも通り廊下に出された空っぽの食器を見て、部屋の扉を軽くノックしてみた。
しかし、反応は無い。
眠っているんだろうか。
私は諦めて食器を持って降りた。
「お兄ちゃんが夜中に?」
お母さんにその話しをすると、怪訝そうな顔をして見せた。
「知らない?夜中に部屋の扉と玄関が開く音がするんだけど」
「さぁ?お母さん、すぐ寝ちゃうし、夜中に物音がしても気づかないから」
「そっか…」
「でも、外に出ているならいいじゃない。引きこもってるより、ずっといいわ」
「うん、そうだね」
私もそこには素直に頷いておくことにした。
例え、その日、五人目の犠牲者が出ていたとしても。
□
五人目の犠牲者は子供だった。
中学生とのことで、最初の犠牲者が出た公園で亡くなっているのが見つかったそうだ。
クラスは違うが、同学年に姉がいるらしく叶の知っている子だった。
「なんで夜中に中学生が出歩いてんの?」
恵那はそう言いながらSNSを見ている。
「親と喧嘩して、家を飛び出してそれっきり…だって」
叶が複雑な表情を浮かべて冷めきったカフェラテを口に運んだ。
「マジかぁ……」
「つらいね…」
「うん、つらいね」
三人が三人とも浮かない顔をして、飲み物を口に運ぶ。
「あ……あの、さ」
「恵那、なに?」
「…夏奈のお兄さんって、やっぱりまだ引きこもってるの?」
「え?…ああ、うん。そうだね、変わらず、かな」
「そっか…」
「え、恵那。まさか、夏奈のお兄さんを疑ってるの?」
「まさか!」
大きな声を出したので、咄嗟に夏奈は「声っ」と言って辺りを見渡した。
カフェにいる他の客が一瞬こちらを見たが、すぐに視線を戻した。
「ごめん…」
恵那と叶が同時に謝る。
「ホントごめんって。悪気は無いの。ただ、さ…」
「何?」
「ほら、三人目の犠牲者、大学生だったでしょ?」
「うん」
「夏奈のお兄さんの同級生だったんだって」
「え…」
「あ、でも、クラスは違ったから面識はないと思うけどさ」
「でも、それだけで夏奈のお兄さんが犯人とか安直すぎるよ」
叶が呆れて言うと、「だってお姉ちゃんがさ」と恵那は言って口を尖らせる。
恵那のお姉さんは学年は一つ下だけど、お兄ちゃんと同じ高校に行っていたはずだ。
ならば、亡くなった人の話しを聞いていたとしても不思議はない。
「みんな不安なんだよ。だから、どうしても悪い方に考えてしまうんだよ」
私がそういうと、恵那は大きく頷いて「うん、そう思う」と言った。
「誰が犯人なのか、ってみんな考えてるよね。怪しい人物が近所にいないかとか…」
「わかる。私の親もさ、近所にいる男性が怪しいんじゃないかとか言い出したぐらいだし」
叶は大きなため息を吐く。
「誰でもいいけどさ、早く捕まらないかなぁ……」
そうだ。
犯人捜しが激化する前に、早く警察に犯人を捕まえてほしい。
一日でも早く。
□
「ねぇ、夏……」
夕食前、台所に立っているお母さんが浮かない顔をして話しかけてきた。
「ん?どうしたの?」
「本当に拓海(たくみ)が、お兄ちゃんが外出してたの?」
「え?…ああ、うん、たぶんね。それがどうしたの?」
「……お隣さんに、”お宅の引きこもりのお兄さんが人を殺してるんじゃないか”って言われたの」
「えっ……なんで?どうして?証拠でもあるの?」
「証拠なんて無いわよ……。引きこもってるから怪しいと思われたんでしょ。でも、だからね、これ以上疑われないためにもお兄ちゃんが夜中に外出してる、なんて他の人には言わないでちょうだい」
「え、あ、うん」
「あの子が人を殺すようなこと出来るわけないけど、疑われたらますます部屋から出て来なくなるもの」
そういうお母さんの顔は酷く悲しげだった。
「うん、わかった」
”わかった”。
そう言うのはとても簡単だ。
言わないでおくのも、難しいことではない。
(だけど……)
塾のリモート授業の内容が上手く入って来ない。
お兄ちゃんは優しい。いつだって幼い妹を気にかけてくれた。
ケガをすれば心配してすぐに走って来てくれたし、風邪を引けば寝ずに看病してくれたこともあった。
でも、そんな優しいお兄ちゃんの思い出は数年前で止まっている。
今はどんな顔をしていて、どんな声をしていて、何を考えているのか、部屋に閉じこもっているせいで私は知る由も無い。
引きこもっているこの数年の間に、人格がすっかり変わってしまって優しかったお兄ちゃんは、もう、居なくなってしまっているかもしれない。
(そんな…バカなこと……)
頭を振って変な考えを飛ばす。
そんなことは無い、お兄ちゃんに限ってそんなことは。
(でも……)
お兄ちゃんが夜中に外出した翌日に誰かが亡くなっているのは、事実だった。
外出してもすぐ戻って来ていれば疑うことも無いのに、一度外出すると一時間以上帰って来ることは無い。
正確には、いつ戻って来ているのか私は知らない。
(人を殺して帰ってくるには、充分な時間……)
そんなことを考えて、また頭を振る。
(止めよう、こんなこと。考えちゃダメだ……授業に集中しなきゃ…)
ギィ……
バタンッ……
私は、ほぼ反射的に部屋を飛び出していた。
廊下は真っ暗、それでも俯いて階段を降りる人の姿が見えた。
「お兄ちゃん」
小さな声で呼んだが、お兄ちゃんは立ち止まること無く階段を降りて角を曲がる。
出来るだけ足音を立てないように階段を駆け下りるが、目前で玄関が閉じられた。
何も履かずに玄関を押し開け、外に飛び出して左右を見たが、そこにお兄ちゃんの姿は無かった。
(コンビニがあるのは、あっちだけど…)
追いかけようとして、思いとどまる。
(殺人犯がいるんだ……夜中の外出は危険だよ、ね…)
そして、おずおずと家に入る。
両親は起きてこなかった。
私は、出来るだけ音を立てないようにそっと階段を上がり、足を止めた。
(お兄ちゃんの部屋……)
お兄ちゃんは今、外出した。
いつもなら、一時間以上は部屋を空けているはずだ。
私は部屋のドアノブを掴み、そして、ゆっくりとドアを開けた。
こもった臭いがした。
なんとも言えない臭いだ。
もっと荒れているのかと思ったのに、部屋の中は綺麗に片付けられていた。
パソコンの電源は落とされていて、スマホも見たらない。
(変なところは何もない……よね?)
机の上にはまだ手付かずの冷めきった夕飯が置かれていた。
帰ってきてから食べるのだろうか。
本棚にはたくさんの医学書や参考書が並んでいた。
一冊手にとってページをめくると、見慣れたお兄ちゃんの字がびっしりと書き込まれていた。
(相変わらず汚い字……)
それにどこか安心して、不思議と笑みがこぼれる。
本を戻してクローゼットを開けてみても、怪しいモノは何一つとして無かった。
(よかった……変わったところは何も無い…)
安堵の息を吐いて部屋を出ようとしたその時、違和感を覚えた。
(お兄ちゃんって……こんなに綺麗に片付けるっけ?)
”O型だから片付けるの苦手なんだよ。”
そんな話しをしていた記憶があった。
自分の部屋ぐらいきちんと片付けなさい、とお母さんがよく怒っていたはずだ。
でも、今は床に脱いだ靴下の一足も見当たらないほど綺麗に片付いている。
人がそこにいた形跡が無いほど、ベッドも綺麗に整えられていた。
(……やることないし、片付けることぐらい…)
そう思って、すぐ否定する自分がいた。
引きこもりの人、全員が全員というわけではないし、精神疾患を患っている人が全員そういうわけではないが、部屋が片付けられない人も多いと聞いたことがある。
正しくは、部屋を片付ける気力が無い、だろうか。
(…部屋を片付けられるようになったから、外出できるようになった…とか?)
人は変わるものだ。
何かをきっかけにお兄ちゃんはきっと一歩前進できたのだ、そう思うことにした。
自分の部屋に戻ってベッドに潜り込んでも、心の中がモヤモヤとしてなかなか寝付けなかった。
よくない考えがずっと頭の中を巡っていた。
こんな夜中に、どこに行っているのだろうか。
コンビニで立ち読みでもしているのだろうか。
それにしても一時間以上帰って来ないのはおかしいし、外出する日もまばらだ。
一体、お兄ちゃんはこんな夜中に家を出て何をしているのだろう。
(……お兄ちゃんが、人を殺すなんて…)
あり得ない。
あんなに優しかったお兄ちゃんが、虫も殺せないようなお兄ちゃんが、夜中に外出して人殺しをしているなんて想像も出来ない。
変わるのならば、優しかったあの頃のお兄ちゃんに戻ってほしかった。
(昔みたいに、恵那や叶たちと一緒に遊んでくれるお兄ちゃんに戻ってほしい…。殺人鬼なんて、ならないで欲しい…)
この外出が、昔のお兄ちゃんに戻るきっかけになればいいのに。
パタンッ…
それは、玄関が閉じる音。
息を殺して耳をそばだてれば、階段をゆっくりと上がってくる足音がする。
私はベッドから出て、ドアをそっと細く開ける。
廊下の電気は消えていたが、暗闇に慣れた目にはしっかりと廊下を歩く人物の姿が見て取れた。
真っ黒なパーカーに、フードを目深に被り、俯き加減でお兄ちゃんは自分の部屋へと一直線に向かう。
顔ははっきりと見えず、表情はわからない。
ドアノブを掴んでひねるその瞬間、お兄ちゃんがこちらを見た。
(え……)
こっちを見たのは本当に一瞬のことだった。
すぐに目をそらすと、ドアを開けて部屋に入り音もなく閉める。
私は、しばらくその場を動くことは出来なかった。
お兄ちゃんは、
あれは、
一体、
だれ?
□
お兄ちゃんの姿はもう何年も見ていない。
だけど、見間違うなんて有り得ない。
お兄ちゃんの部屋に入った人物は、確かに見ず知らずの人だった。
背丈が違う。
体つきが違う。
あんなにお兄ちゃんは、顎が細くないし、目付きも悪くない。
(じゃあ、あの人は誰?いつからあの部屋に?おにいちゃんはどこに行ったの?)
答えの出ない自問を繰り返す。
翌朝、部屋の前に置かれた空っぽの食器を持ち上げ、閉じられたドアを見つめる。
(この中に知らない人がいる…)
そう思った途端に怖くなって、階段を駆け下りた。
「おはよう。どうしたの?慌てて。まだ、遅刻する時間じゃないわよ」
「あ、うん。そうなんだけどさ……。ねぇ、お母さん」
「何?」
「お兄ちゃん、最近見た?」
「見てないわよ」
「最後に見たのは、いつ?」
少し早口になって尋ねたと思う。
「えぇ?うーん、いつだったかなぁ?」
お味噌汁をかき混ぜながら視線を宙に彷徨わせる。
「二年前、かな。あれ?三年前?だったかなぁ。部屋から顔を覗かせてきたときに見たわよ。それがどうかしたの?」
「う、ううん。そのとき、見た目って変わってた?その、顎が細くなってたり、目付きが悪くなってたりとか」
「えー?変わらないわよ、あの子は。少し髭が生えて、髪もボサボサになってたけど。見た目はあのまんまよ」
そう言ってお母さんが指差した先にあるのは、家族写真だった。
私が六歳で、お兄ちゃんが十二歳だったころに撮ったもの。
「そっか……」
「あの子、老け顔だから。きっと、三十歳になってもあの顔なのかもしれないわね」
お母さんはどこか楽しそうに言ったが、私はちっとも笑えなかった。
昨日の夜に見た人物は、やはり、この写真に写っているお兄ちゃんとは似ても似つかなかったからだ。
お兄ちゃんが知らない人に変わっているかもしれない、なんて言えばきっとお母さんはパニックになるはずだ。
でも、ずっと黙っているわけにもいかない。
これ以上、見ず知らずの人と一緒に生活するわけにはいかないし。
どこか、何かのタイミングで話さないといけない。
(それは、いつ?)
自問しても答えは出ない。
でも、出来るだけ早い方がいいとは思った。
□
学校に行って、昼休憩が終わる間際にまた、犠牲者が出たと話題になった。
これで、6人目だ。
亡くなったのは中年のサラリーマンで、自宅で遺体が見つかったそうだ。
あの人が外出したタイミングで、人が亡くなっている。
たまたま、偶然三回も、というわけではないだろう。
あの人が事件と何らかの関わりがある可能性は限りなく高い、と思う。
しかし、警察の捜査は難航しているようだった。
六人も殺されているのに、目撃情報も有力な手掛かりも無いという。
そのため、学生たちの犯人捜しはますますエスカレートしていく。
”何丁目に住んでいるおじさんが怪しい。”
”あそこの角に住んでいる口煩いおばさんが怪しい。”
”ずっと引きこもっているあの人は”、
”最近姿を見ないあの人は───。”
しかし、どれも確証の無い噂話に過ぎない。
(もう一回、確認するべきなのだろうか……)
恵那が事件について話しているのをぼんやりと聞きながら考える。
本当にあれは全くの見知らぬ人物だったのか。
私の見間違いだったのではないか。
廊下は真っ暗だったし、相手は目深にパーカーのフードを被っていた。
(……いや、あれは確かにお兄ちゃんじゃなかった)
あの目付きも、顔の輪郭も背丈も、明らかに違った。
(でも、もしその人が、本当に人殺しだったら?)
確認して、お兄ちゃんではないとわかったとして、相手はそのことに気がついた私を見逃してくれるだろうか。
最悪、バレた瞬間に殺されてしまうかもしれない。
だったら、確信が無くても親に言うべきだし、警察に言うべきだと思う。
警察の人に確認してもらった方が確実だし。
それに、お兄ちゃんがどこに行ったのかも気がかりだった。
夕方、家に帰ると玄関に鍵がかかっていた。
お母さんはパートに出ているけど、いつも15時半には帰っているはずだ。
まだ、この時間になっても帰っていないのは珍しい。
嫌な予感がした。
(もしかして、お母さんに何か)
そう思った瞬間、スマホが震えた。
画面を見るとお母さんからメッセージが届いていた。
“仕事でもう少し帰りが遅くなりそうなので、先に帰ったらお風呂掃除お願いね。”
(ああ…よかった…)
安堵の息を吐き、玄関を開けて家に入る。
リビングにあるテレビを付けて、言われた通りお風呂掃除を済ませた。
「ふぅ…」
一息吐いてソファーに座ると、二階にいる人物のことを思い出した。
(忘れてた。二階には“あの人”がいるんだった…)
思い出すと恐怖心が湧き上がってくる。
スマホを手に取り、ソファーから立ち上がるとダイニングチェアに座り直した。
ここなら二階から下りてきて、リビングに入ってくるのがよく見える。
テレビでは民放のニュース番組をやっていて、この地域で起こっている事件について専門家が熱く語っていた。
時刻は16時半を少し過ぎたところ。
お母さんからは、まだ何の連絡もない。
(どうしよう…)
思えば自分は、はっきりとではないにしろ犯人の顔を見ているんだ。
いつ殺されてもおかしくない。
今日、この瞬間に殺されるかもしれないし、夜中に部屋に入ってきて殺されるかもしれない。
(ああ、どうしよう…。凄い…怖い……)
手の震えが止まらない。
このままここにいれば“どうぞ、殺してください”と言っているようなものだ。
ただ、誰かが帰って来たと二階にいる人はわかっても、それがお母さんなのかお父さんなのか私なのかまではわからないはずだ。
いつも通りだと、最初にお母さんが帰ってきて次は私が帰って来る。
それならば、今、一階にいるのはお母さんだと二階にいる人は思っているかもしれない。
そう考えても、落ち着いて座っていることなんて出来ない。
(どうしよ……お母さん、いつ帰ってくるかな…)
ギィ……
バタンッ……
(あ、ドア、が……)
二階のドアが開いた音がした。
ゆっくりとだが、廊下を歩く足音も聞こえる。
(ど、どうしよう!…こ、このまま、ここにいると危ない…どこかに隠れないと!)
足がもつれて転びそうになりながら、隠れる場所を探す。
トイレやお風呂場やダメ。
見つかったらすぐに逃げられない。
勝手口から出て、コンビニに逃げて、お母さんに連絡しよう。
(階段を下りてくる足音が聞こえる!)
勝手口のある洗面所へ向かい、ドアに手をかけた。
しかし、押しても引いてもドアは開かない。
「え……どうして……」
どう見ても、勝手口のドアの鍵は開いている。
ドアノブも回るのに、どんなに押しても引いてもうんともすんとも言わない。
まるで、ドアの向こうに何か重い物が置いてあるようだった。
(ダメっ、あ、足音はどんどん近づいてくる!)
ここから出られない。
別の場所から逃げようと振り返ると、そこには、真っ黒なパーカーを着てフードを目深に被った人物が。
「あっ」
その手には、包丁が握られていた。
お母さんがよく使っている包丁だ。
大声を出そうと息を吸い込んだ瞬間、あっという間に距離を詰められ、口を塞がれた。
(やだ!やだ!!死にたくないよ!!誰か助けて!!誰か!!)
振り上げられた包丁は、あっさりと何の迷いも無く振り下ろされた。
(ああ……お兄ちゃん……)
「拓海!出てこい!!いるんだろ!?」
夏奈の父親は、息子が引きこもっているドアを何度も叩く。
「夏奈が……夏奈が………殺されたんだ!!」
そう言っても反応は無い。
「拓海!いい加減に!!」
乱雑に開けられたドアの向こうに、息子の姿は無かった。
「……拓…海?」
呼んでも返事はない。
部屋の中は綺麗に片付けられており、人がいた形跡さえも無い。
机の上に置かれた手付かずの料理だけが異臭を放っていた。
『三上夏奈さんら七人が亡くなった連続殺人事件の続報です。三上夏奈さんのお宅を調べたところ、夏奈さんの兄、三上拓海さんの部屋から被害者の持ち物が複数発見されました。警察は、三上拓海さんが事件と何らかの関わりがあると見て捜査を開始すると共に、三上拓海さんを全国で指名手配することとしました───。』