【廿陸話】
居間の中の静かだった世界が雫が落ちた水面の如く 波立ち、ざわめく。
志津子さんは訳も分からず立ち尽くすし、蒼井さんは先程まで庇う様に遥さんの肩を抱いていたが一連の流れにもう疲れ切ってしまった様で、
今は一人、事態を頭で把握する事を諦めた様な顔で壁に頭を預ける様に座っていた。
最早、瞳に力が無い。
須藤さんはじっと志津子さんを悲しい顔で見詰めていた視線を驚きでもって野々村に移し、日下部や樋口も彼の一言に阿呆の様に口を開けたまま固まっていた――
遥さんだけは意思をもった強い瞳で縁側に立ち、庭をじっと見つめていた。
空気が再び重く圧し掛かる。
「市ノ瀬容子、えっと――和久とか何とか云う男の不審死、臼田重雄失踪、
氷川プロ社長刺殺、嘉島伸江絞殺、これら一連の事件は全て何らかの形でこの家と関わっている。
全ての殺人は志津子さんにとても都合の良い。そうでしょう?
思い出したくない過去を知る恐喝者も詐欺紛いの誘惑者も死んだ。そしてこれは別なのでしょうが、その後始末をしてくれた人間も他界してしまった。」
水を打った様に静まり返る室内。皆が野々村の次なる言葉を只、待っていた。
「逆に言えば志津子さんに嫌疑が掛かかる様な状況になっている。そうでしょう?事実、樋口さんは臼田の行方とそれ以外の関与を疑って此処にたどり着いた。違いますか?」
野々村は樋口を間接的な視線で射た。
「そうだ。」
「そしてその頃には彼女は精神的にも肉体的にも疲労し、もう全て洗いざらい吐いてしまった方が楽だと云う位まで追い込まれていた。そもそも死体と良い、凶器と良い、隠す意思が見当たらない様な杜撰な扱いだった。
逃げ切りたいとは思って居ない。しかし出頭する勇気も無いし出頭してしまっては何の為に手を下したのか分からなくなる。位の気持ちだったのでしょう。内心追い詰めて自分の息の根を止めて欲しかった。違いますか?志津子さん。」
今度は樋口の時と同様に間接的な視線でもって志津子さんを射た。
「そうです。その通りです。卑怯にも裁きを待っておりました。」
鈴の音の様な透き通った声が部屋に響く。
「彼女は元々、逆境に対抗する情熱の足りない人だった。
目の前の火の粉を軽く払うだけで幸せを望みながら、自ら切り開こうとするのは稀な種類の人だった。つまり、自分で計画して幸せと云う物を掴み取る様な情熱を持った人では無かった。」
――遥さんの父親の件は別にして。
「そうです――わね。あの人の事以外では、私は流されるままに――生きておりました。それを自らの意思と勘違いして、いえ、そう自分を騙して居たのかも知れません。」
志津子さんはそう云って自嘲した。
「つまり何も手立てが無ければ、知らなければ何も行動を起していなかった人なのです。」
話の流れに違和感を覚え、皆が周囲を見渡した。
そして訳が判らなくなっているのは自分だけでは無いと知ると安心した様に
再び野々村の言葉を待った。
「毒薬も環境も、ただ気が付いたら目の前に環境が整っていた。全てが手の届く範囲にあった。そして人は目の前に選択肢を羅列され圧力に押されて選んだ時、自分が一番楽になれる方法を選ぶものだ。
ナチスの実験にこんなモノがあった。
見知らぬ二人にくじを引かせる。一と二、AとB、
実際その紙に何と書かれていたのかは知らない。
その二人を隣り合った部屋に案内する。部屋は大きな硝子で隔たれていて
相手の姿が見える。例えば壱としようか、Aは何やら機械の置かれた机に座らせる。
機械には何かを調整する様な釦(ボタン)式装置が三つ四つ付いている。
目の前の硝子では先程隣に座っていた見知らぬ相棒が椅子に座らされている。何やら頭や体にいかにも電気を通す様な線の様なものが貼り付けられている。
機械の在る側の壱にナチスの係員云う。
この釦(ボタン)式調節装置は目の前の彼の体に流す電流を調節するものだ。人が何処まで電流に耐えられるかの実験をするのだ、と。
当然そんな事は誰だって嫌だ。自分の所為で名も知らぬ人だが苦しむ事になる訳だ。しかし、戦争下で軍人の云う事は絶対で、背後には銃を下げた軍人が居る。やらざる負えない。断った先は目に見えている。
係員は云う。この最後の釦は高圧電流が流れる。確実に死に至らしめる。では最初の釦から押したまえ。
一個目、二個目、最後の釦までは誰でも苦悩をしながらも割と簡単に押す。
しかし最後の釦だけは嫌がる。当たり前だ。後味が悪すぎる。
係員は云う。押さなければ実験は完了しない。それでも断る。押さない。
そしたら最後に係員は云う訳だ。全ての責任はドイツ軍が持つ。
押すかそれともここで殺されたいか?
これで大体の人間は躊躇も無く釦を押す。知りませんよ?何て云いながらも
人が死ぬと分かっている釦を押す事が出来た。つまり整えられた環境下で、
圧力が掛かれば大概の人は人を殺せるんだよ。」
「お母さんの目の前ににその環境を用意したのは君だね?」
野々村は遥さんをその大きな眼球で射る様に見つめた。
「何を仰っているのか――」遙さんは困惑の表情を見せる。
私と樋口は野々村の思わず饒舌に呑まれ、驚き、互いの顔を見合わせた。
まるで孤島にでも取り残された気分だ。
開け放った縁側から庭へ降りようとしていた遙さんに
畳を軋ませて近づく男。
あの日、あの桜の下で見た野々村だ。
まるで風にたゆたう様に――風の流れを感じさせること無く
彼は、まるで魔の様に彼女に近づき、その首筋に言葉を投げかけた。
「もうこの際良いじゃないか。僕がこう云った発言をした事によって君は――ここに居る人間にはどう否定しても心の中でその可能性を疑われ続けて生きるんだ。否定しようが肯定しようが一緒だよ。今更誰を欺いて得をする?君は拘束も逮捕もされない。」
彼女は酷く辛そうに顔を歪めたのと野々村が息を吸ったのが同時に感じた。
「ねぇ、遙――」
「お兄様、私――」
――僕は君が好きだよ。
【続く】