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健太はハーバー通りにある二階建てアパートの一室の、古びた横長ソファに座っている。
ツヨシは下着、Tシャツ、ズボン、雨具を次々にナップザックに詰めている。昨日パーティが終わったかと思えば、明日からツヨシは、ミエとその友達の女ばかり四人に混じって三週間の旅に出る。
モテる男は忙しいね、と健太は言った。「単に男扱いされてないだけだよ」とツヨシは答えた。周りの女の子は、華奢な体躯に寒いギャクを連発するツヨシに対して警戒心がない。健太から見ればこれだけ頼りになるヤツはいないと思うのだが、女性には、三枚目を演じるただの面白い人に映るようだ。結果として、ツヨシに恋の花が咲く気配は感じられない。
ツヨシとは出会ってから今日まで、ルームメイトとして一日も欠かすことなく顔を合わせている。けれどいつも誰かが真中にいて、リビングで二人きりになることの方が稀だ。こうなると、辺りの静けさがかえって奇妙だ。
いい旅してきてくれよ、と健太は言った。
ツヨシはパンパンに膨らんだナップザックのチャックを閉めた。
「さてね。女の子の調子取るのって、結構大変なんだよ。特に誰のこと言ってるのかはお察しの通り」
ミエはときどきここにも友達を呼んではくるが、同じ人が続けて来たことはない。たまにキヨシと喧嘩もするけれど、ハーバー邸に常時集まる仲間ならば概ねわがままも聞いてくれる。他ではこうはいくまい。
「そっちも旅行、決まったのか?」とツヨシが聞いてきた。健太はうなずいた。
「マレナちゃんと二人で?」
「まさか。キヨシと三人だよ」
ツヨシの表情が曇ったように見えた。健太はツヨシの次の言葉が出るのを待った。
「実は、さっきキヨシに『こっちにしばらく置いてもらってもいいですか』って聞かれた。何かあったのって聞くと、『いや、別に』としか言わなかった」
どんな事情だろう、と健太は聞いた。
「キヨシはゴリラさんともめてる」とツヨシは言った。ゴリラさんとは、キヨシのルームメイトのことだ。女性だが、ゴリラを思わせる力強い風貌から仲間内ではこう呼ばれている。もちろん本人の前では皆、本名で呼ぶ。
「事情通だな。キヨシがそんなこと言ってきたのか」と健太は聞いた。
「まさか。今朝ゴミ出しに出たとき、ゴリラさんから聞いた」
キヨシとゴリラさんのアパートは、私道を挟んで向かい側だ。何があったのかは知らないが、喧嘩をしたらキヨシより強そうだし、キヨシは年上には頭が上がらないところがある。
「キヨシ、置いてやろうよ」と健太がいうと、ツヨシは腕を組んで唸った。
悪いヤツじゃないと思うよ。それに毎晩夕食も作ってくれてる、と健太がいうと、
「そこまではありがたいんだけど」とツヨシは言った「こんなこといいたかないけど、食事代出したことがないんだよなあ」
料理作ってくれるんだから、そんなの取らなくていいんじゃないのかと健太が言うと、
「そりゃ、一回二回のことだったらいいけど、毎晩はね。気持ちだけでも負担しようとするところがあってもいいと思うんだけどな」ツヨシは不満そうな顔だけ残して口をつぐんだ。
健太は食器棚からグラスを二つ取り出し、冷蔵庫からアイスコーヒーの紙パックを引っぱり出した。
なあ健太 俺達、こんな幸せでいいのかな
昨日のツヨシの言葉が、健太の頭の中を反芻する。
健太とツヨシは、食卓を挟んで向かい合わせに座った。
「あのさ、」健太はグラスにアイスコーヒーを注ぎ、一方をツヨシに差し出した「俺さ、今だから言うけど、マチコちゃんが帰国したとき、これで終わりかと思ってたんだ。楽しい毎日なんて、そんな長く続くはずはないと思ってた。少なくとも、これまでの俺の人生にそんなことはなかった」
マチコはミエの専門学校時代の友達で、当時はミエの家に居候していた。ちなみに、ミエはマチコを通して知り合った。
「ミンが帰国したときも、もうこんな毎日は終わりだと思った」と健太は言った。
ミンは健太にツヨシを紹介してくれた韓国人で、ミエの恋人だ。二人が付き合いだしたときは、周りの誰もが驚いた。なにしろミンはまだ高校生だし、ミエの方が七つも年上だ。しかも、ミンに新しいビザが発給されなかったために、韓国に帰ったままとなってしまった。
「マチコちゃんがいた頃とか、ミンがいた日々を『あの頃は楽しかったな』なんて、お互い言わないでこれた。確かに最高に楽しかったんだけどさ」と健太は言った。
朝、車にツヨシとキヨシをつめて学校へ向かう。教室へ向かう前に、学校付属のカフェテリアに立ち寄る。ミエのテーブルを捜す。ミエは大抵一人でいるが、たまにマレナが隣にいることもある。授業を終えたあとも、カフェテリアで待ち合わせをする。帰りはツヨシとキヨシの他にミエも乗せて、ハーバー邸へ向かう。途中、スーパーへ買出しに立ち寄ることもある。夕食はキヨシとミエが作ってくれる。飲んで食った夜更けに、健太が車でミエを家まで送る。その際、ツヨシかキヨシの片方も付いてくる。そんな毎日。
「これって、何だろな」とツヨシが言った。
「ある意味、共和国だろね」と健太は自分で言ってから、さらに言葉を紡いだ「……共和国? 俺達の、国」
「もし国だったら……なんて名前かな」ツヨシがいたずらっぽい顔をしている。
「やっぱり、ハーバー共和国だろね!」と健太は言った。ハーバーとはアパートの前を通る、車の通りの少ない閑散とした道の名前で、ここの住所でもある。
アイスコーヒーの容器は空になった。ツヨシが缶ビールを冷蔵庫から取り出す。
「公用語は英語にしようよ」と健太は言った「お互いせっかく学んでるんだから」
「キツイけどそうするか。シンガポールみたくて面白い」シンガポールは中華系が多いのに、公用語は英語だって意味だ、日系ばかりのメンツでも英語を公用語にしたっていい、とツヨシは付け加えた。
「でも、何か工夫しないと難しいかもよ」と健太は言った。
「じゃあ、週に一回【言葉の日】ってのを設けない? その日は公用語以外使っちゃいけないっていう」