夕食を誘われてから一週間、あれから私は帰宅時間がますます遅くなり、お隣さんと会うこともなくなった。
「ありがとうございましたー」
もう日付けも変わりそうな時間帯、コンビニでお弁当ではなく栄養補助食品を買うようになった。とにかく睡眠時間が欲しい。帰ったらそれを食べ、すぐにベットに直行。朝シャワーを浴びてそのまま出勤という生活が続いている。
でも、明日はついに休みだ。帰ったらすぐにベッドに入って、明日のお昼頃まで寝ていたい。
考え事をしていたらアパートに着くのが早かった。階段を上がり、さて早く寝ようと鍵を探すのに 鞄(かばん)を漁っていると、お隣の扉が開く。
「お、」
「……こ、こんばんは」
「……」
嫌なタイミングでお隣さんが出てきた。挨拶をしてお辞儀をした私に対し、お隣さんはタバコを 咥(くわ)えお辞儀をするだけだった。ジーっとこちらを見ているけど、何か話しかけてくる素振りはない。気付かないふりをして、 鞄(かばん)から鍵を取り出し扉を開けようとしたが、あまりにも視線が痛いから恐る恐るお隣さんに声を掛ける。
「……な、なんですか?」
「……雫ちゃん、この数日会わないだけで随分痩せたな」
「……まぁ、確かに」
「普段何食ってんだよ」
「大体、栄養補助食品を」
「はぁ?! 」
「ちょっ!、声が大きいですよ」
確かに痩せたかもしれないけど、それをこの人にどうこう言われる筋合いはない。ムカムカして何か言ってやろうと身体をお隣さんに向けた時、いきなり力が抜けた。意識が遠のき、膝から崩れ落ちる。あ、これはもしかしてお昼を食べ損なったのが 祟(たた)ったか。
「雫ちゃん?! 」
「……だ、大丈夫です」
お隣さんが 間一髪(かんいっぱつ)抱きとめてくれて助かった。しかし最近は睡眠欲が食欲に勝っていたから、久しぶりにこの感覚を味わったな。さっさと帰って買ったものを食べよう。そう思い視線を上げると、抱きとめてくれたお隣さんが険しい表情をしていた。
「お前、倒れそうになっておいて大丈夫なわけねぇだろうが」
「……お腹が減っているだけなので」
「あぁ?」
「だから、 」
グゥゥ……
「……マジかよ」
怖い顔で凄んでくるお隣さんの腕から解放されたくて、腹ペコなことを伝えようと口を開いたと同時に、私のお腹からすごい音が鳴った。
恥ずかしくて堪らなくなって、無理矢理立ち上がろうとすると、一気に視界が上がる。お隣さんが私をお姫様抱っこしていた。大声を出しそうになったが、くらりとして思うように抵抗できない。なんなのこの状況は!!
「今日は何食うの」
「今日はゆっくりとコンビニの海苔弁を……」
「この馬鹿!!若いからって食に無頓着過ぎるんだよ!」
「なんでそこまで言われなきゃいけないんですか……」
そのまま私の部屋に連れて行ってくれるのかと思えば、何故かお隣さんは自分の部屋の扉を開けた。
「そこ違う」
「うるせぇ、ガキは黙って お持ち帰りされてろ」
「お持ち帰りって!待って、嘘でしょ!っていうかあなた結婚してるくせに何やってるんですか!」
「あぁ?してねぇよ。独身だっつーの」
「……?」
結婚してないの?だっていつも美味しいご飯の匂いがしてたじゃない。玄関に入れられ、扉に向かって伸ばした手は叩き落される。嘘でしょ?!
お隣さんの部屋は独身男性の一人暮らしの部屋の割にキレイで、私の部屋なんかより全然整理整頓されていた。
お隣さんは私をゆっくりソファーに降ろすと、ブランケットを掛けてくれる。
「私帰ります」
「いいから休んどけ」
「でも、」
お隣さんは私をジロリと見て黙らせると、エプロンをしてキッチンに立つ。キレイだけど使い込まれた、調味料や調理器具が使いやすい位置に置かれた、普段から料理をする人のキッチン。
お隣さんの背中を見て、本当にこの人がご飯を作っていたんだと妙に納得した。さっきまでどこか半信半疑だったけど、冷蔵庫の扉の隙間から見えた、タッパーに入ったお漬物や常備菜。手際よくボールに卵を割り、かき混ぜる慣れた手つき。疑った自分がアホらしく思えてくる。
だんだんと部屋が優しいお出汁の匂いで満たされていく。この感じ懐かしい、小さい頃夕飯の前に漂ってくるお夕飯の匂いが大好きだったなぁ。
「ほらよ」
「…… うわぁ!」
ぼーっとしていると、お隣さんが目の前に出来上がった料理持ってきてくれた。それを見て思わず声をあげる。小鍋の蓋をゆっくり開くと、熱々の湯気と空腹の胃を刺激するお出汁と醤油の匂いが広がった。なんと小鍋の中身は卵雑炊だった。湯気の向こうで、お米が出汁を吸ってつやつやと輝いている。
「熱いから、フーフーして食えよ」
「子供扱いしないでください」
「ガキじゃねぇか」
「22歳は立派な大人なんですよ!」
子供扱いをしないでと言いながら、言われた通りフゥッと息を吹きかけ雑炊を冷まし、ゆっくりと口に入れた。お米がくたくたになるまで出汁を吸っていて柔らかい。そこに溶き卵が絡んでいて舌触りもいい。スゥッと鼻から息を吸うと、お醤油の良い香りが身体中に染み渡る。すごく優しい味だ。そんなに噛まずに喉を通っていくと、心と身体がホッと温まる。美味しい、こんなに美味しいご飯いつぶりだろう。
誰かが作ってくれたご飯ってこんなに美味しいんだ。そう思うと自然と視界が歪んで、気が付けばそれは大きな涙の雫になって、レンゲを持つ手にこぼれ落ちていた。
「雫ちゃん?」
「み、見ないで!」
「どうしたんだよ」
お隣さんは私を見て動揺し、困ったように頭を掻いた。そして不器用な手付きで私の頭を撫でる。そんなことされたら余計に止まらないよ。
「私、東京に出てきてから……こんなにあったかいご飯なんてずっと食べてなくて……」
「そうか、」
「ずっと仕事ばかりで……誰かにこんな風に夕ご飯を食べさせてもらうのも、久しぶりで……」
言いたいことが溢れて止まらない。そうか、私は食に無頓着だったんじゃなくて、ただ毎日にいっぱいいっぱいで、食を楽しむほどの余裕がなかっただけなんだ。
だって、こんなにお隣さんの作ってくれた卵雑炊が美味しいもん。私の涙が止まるまで、お隣さんは黙って私の頭を撫でていてくれた。そしてようやく落ち着いた頃、お隣さんは口を開く。
「ようするに、雫ちゃんは毎日必死なんだな」
「……恥ずかしながら」
「まぁ、あんなに顔色も悪くて、どんどん痩せてくのなんて俺もお隣として放っておけねぇしなぁ」
お隣さんは顎に手を当て、何かを考えた後こちらに視線を向けた。
「決めた!雫ちゃんこれからここで飯食えよ!」
「……えぇっ?! 」
何を言い出すかと思えば、お隣さんはにやりと微笑む。
「これからも仕事の日はコンビニ飯なんだろ」
「う、はい」
「俺も一人暮らしだし、飯もいつも作り過ぎちまう。だったらここで飯食って家に寝に帰ればいいんじゃねぇの?」
「いや、それは……」
「それに、一人で食う飯より誰かと食う飯のほうが美味いだろ」
核心を突かれ黙り込む。確かにそうだったかもしれない、誰もいない部屋はやけに寂しく感じて、食にまで意識が向かない。
「うちで食えよ。絶対な」
「絶対って……」
「これは決定事項だ。それに、」
お隣さんは楽しげに笑い、口を開く。
「雫ちゃん、もう俺に胃袋掴まれてるだろ? 」
そのセリフがまさか男の人から聞けると思ってなかった……!これ以上の文句は聞かないつもりなのか、お隣さんはキッチンに戻って行ってしまった。
確かに掴まれたけど……、がっちり掴まれましたけど!!でも毎日なんて普通に申し訳ないよ。でもあの人聞く耳持たなさそうだし……。あーー、どうする私!!
コメント
9件
ガチでお腹空いてきました