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月は、すっかり雲間に隠れてしまった。
幾ばくか、余韻とでも言いたげに足元を灯してやろうと、明かりは天から漏れてくるが、それは、到底歩めるものとは言えなかった。
しかし、パンジャと会って話をしたからか、夢龍は安堵してしっかり歩んでいる。
この薄闇では、鼻をつままれてもわからんだろうな、と、冗談など思い浮かべたその時、夢龍の腕は、何かに、がっしりと掴まれた。
そして、楼閣の裏側へ、ずるずると、身体が引きずられて行く。
声を上げれば、パンジャが気がつくはずと思えども、喉元には冷ややかな刃の感触がある。
続いて、あっと、思った瞬間、夢龍の天地はひっくり返った。見上げると、大きな黒い影が覆い被さっていた。
地面に放り投げられ、しこたま体の側面を打ち付けた夢龍は、何が起こっているのか、まだ理解できない。
「お前、間者か?」
「そ、そうゆう、お前は、いったい……」
それ以上聞かなくとも、夢龍には声の主が黄良であると直ぐにわかった。
胸ぐらを掴まれ、今度は引き起こされたからだ。
互いの顔がぶつかり合うかの距離に、黄良は夢龍を引き寄せる。
「騒ぐんじゃねぇ。お前、どこの手の者だ?」
……それは。どう、答えるべきか。
躊躇する夢龍に、黄良は言った。
「お前、あいつの正体知ってるのか?」
「正体?」
はあ、と、黄良は、ため息をつく。
「またか。そんな事だろうと思ったのよ」
「ちょっと、待て、また、とは、正体とは、いったい……」
「てめぇの、目で、確かめな」
その瞬間、月が、雲間から顔を覗かした。まるで、黄良に呼ばれたかのごとくに──。
そして、夢龍は、短刀を鞘へ納める黄良の姿をはっきりと見ることになる。
恐らく、騒がなければ手荒なことはしないだろう。とはいえ、体は、夢龍より随分と大きい。刃物など無くても、その腕力だけで十分夢龍を捻り潰せる。
どうした、と、黄良が急かす。
言われるがまま、夢龍は楼閣の、柱からそっと顔を覗かせ、先程まで自身がいた大木を見た。
パンジャがいた。そして、うずくまっている。
「!」
思わず、声を上げそうになり、夢龍は自らの手を口元に添え、声を漏らすまいとした。
ここで、パンジャに気がついてもらえれば、きっと、加勢してもらえるだろう。黄良が刃物を持っていると言えば、パンジャは何か、機知を巡らせ、夢龍を救ってくれるだろう。
だが、夢龍は声をかけたくなかった。いや、今はかけてはならないと思った。
パンジャは、本来の身元がバレてはと言って埋めた、夢龍の暗行御史《アメンオサ》の証を掘り起こしていたからだ。
「……どうした、あいつは、何をしているんだ?」
背中越しに、黄良が声を描けてくる。
「いいか、あれは、裏切り者だ、南原府使、下学徒《ペョン・ガクト》様の一の子分よ」
「……学徒の、とは……どういう意味だ?」
しっ、と、黄良が夢龍を睨む。
声が大きかったようだ。
「……しかし……あれは、我が家の下僕……」
「さあ、そちらさんの事情は知らないが、あいつは、都からやって来た官吏に近づいて、上手い具合に転がしやがる」
「……そして、学徒は……無罪放免……か」
良くできた仕組みだな、と、夢龍は呟いた。
あろうことか、パンジャは、兄の使いではなく……そう、夢龍が、都合良く働くか監視する為に使わされた者──。
「はっ、内侍の京成《キョウセイ》に、してやられたということか……」
「内侍ってのは、宦官の事だろう?夢龍、お前、いったい……」
「ああ、ただの、官吏ではない。いや、もう、官吏でもないな」
夢龍は、睨み付けるようにパンジャの姿を見た。
颯爽と帰ろうとしている男は、その懐に、大木の根元から掘り出した夢龍のものである、暗行御史《アメンオサ》の証を仕舞いこんでいた。