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あれからどのくらい泣き続けただろう。
一生分かと思うぐらい泣いて、泣いて、泣き喚いて。果てには泣き疲れて涙すら出なくなってしまった葵衣だったが、部屋の隅で壁に寄りかかり、膝を抱えていた時、ふと視界の端に蒼翠の翡翠の天馬が映って――。
その瞬間、絶望を押し退けて酷い不安と焦りが脳内を駆け抜けた。
そうだ、自分は今、蒼翠になってしまっているのだ。
「よりにもよって……なんで蒼翠なんだよ……」
こういうのを転生というのだろうか。高校の時に流行ったアニメの影響で読んだライトノベルで似たような状況に陥った主人公がいたが、あれは転生前の人間そのままで、しかも転生後は世界を救う救世主で、チートみたいな力と信頼を得ていた。
しかし、こちらはドラマいち、最低最悪な男だ。
性格は狡賢く、外道で冷血。私生活では酒、女、賭け事浸りの毎日を送り、退屈を覚えると酒席の余興で殺人も犯し、人々を恐怖の日々へと突き落とす救いようもないクズ。
そしてこれが一番重要なのだが、蒼翠はドラマの最終回で主人公の無風に復讐の相手として斬られるキャラだ。
つまり、自分もこのままでは最後に殺されることになる。
これはまずいなんてものではない。
「嫌だよ、俺死にたくないし、痛いのもごめんだって……」
ドラマでは斬られた蒼翠はあっさり死んでいたが、あんなのはドラマの演出であって実際は絶対に痛いし、苦しいし、綺麗になんか死ねないだろう。
葵衣改め蒼翠は寝台に座り、頭を抱える。
部屋の外から声がかかったのは、その時だった。
「蒼翠様。よろしいでしょうか?」
これも聞き覚えのある声だった。確か、この少ししゃがれて聞き取りにくい喋り方をするのは、蒼翠の配下の男のものだ。
――え……ちょっ、ちょっと待って……。
蒼翠の私室に来たということは、用があってのことだろう。が、今は見た目は蒼翠だが中身はどこにでもいる普通の日本人だ。何か聞かれても答えられる自信がない。
困った。非常に困った。どう対応すればいいか悩む蒼翠だったが、外の部下は待ってはくれず。
「何かあったんですか? 入りますよ?」
返答がないことを不審に思ったのか、勝手に扉を開けて中へと入ってきてしまった。
「蒼翠様、大丈夫ですか?」
そう聞きながら近寄ってきたのは、やはり蒼翠の配下の半龍人――人間の姿形をしているが霊力が弱いゆえ、皮膚の半分が黒鱗に覆われている龍人――だった。中国時代劇のトレードマークともいえる長髪がなんとも似合わない、鱗でデコボコした下膨れ顔はドラマでは特殊メイクだったが、蒼翠の目には本物の肌に見える。
「ああ……いや、別に……」
蒼翠は緊張に全身を硬直させながら、ぎこちなく返す。
この半龍人のこともよく知っている。確か半龍人であるため奴隷扱いされていたところを、蒼翠が気まぐれに声をかけ筆頭の配下にした男だ。その時、蒼翠に強く感銘を受け忠誠を捧げたのだが、この一見感動できそうなエピソードにも当然裏がある。
蒼翠がこの男を拾った理由は単に「恩を作っておけば、もしやの時に盾になって死んでくれるだろう」と思っただけという卑怯極まりないもの。そんなことも知らずに膝を突くこの配下が不憫でならない。
しかし、それはさておき。自分はこの半龍人を含め、他の配下とこれからどう接するべきなのだろう。ドラマのように冷酷無情を貫くか、はたまた真逆の道を進むか。
――この先も蒼翠として生きてかなくてはならないとして、味方になって貰うのなら優しくした方がいいかな。
無論、帰れるものなら元の世界に帰りたいし、その方法も探していくつもりだが、それまでの間周囲とは平和的に、と想像して蒼翠はすぐに首を横に振った。
――ダメだ。そんなことしたら秒で殺される。
黒龍族は上昇志向が強く、自分が上に立つためなら平気で人を陥れる。ドラマの中では蒼翠の父であり、邪界の頂点に君臨する邪君も忠誠を誓ったはずの臣下たちに幾度も王の座を狙われていたし、蒼翠も他の皇子を蹴落とす画策しては愉しんでいた。こんな欲の塊ばかりが集う世界で優しさなんて見せていたら、明日には蒼翠の葬儀が行われているだろう。
配下の前では普段どおりの蒼翠を演じるべきだ。そう決めた蒼翠は、記憶の中の本物の蒼翠を気合いと根性で引っ張り出し、半龍人の配下に冷たい視線を向けた。
「……大事ない。下がれ」
「はっ、かしこまりました」
すると配下は即座に姿勢を正し、頭を下げた。どうやら本物の蒼翠にみえたようだ。
こんなこと言ってはなんだが、エンドレス金龍聖君しておいてよかった。
「……あ、ですがひとつだけ。あの薄汚れたガキはどういたしましょう? ずっと泣き止まないので殴って大人しくはさせましたが」
「ん? ガキ?」
「先日邪界と聖界の境界にある森で見つけたガキです。蒼翠様のお手を煩わせるほどの価値もない下賤の者ですので、お許しいただければこちらで始末しておきますが」
「聖界の村……さらった……ガキ……?」
半龍人の言葉に妙な引っかかりを覚えて、蒼翠は首を傾げる。
「先日、妖の粛清に向かった際、墓の前で一人佇んでいたガキです。蒼翠様がちょうど奴隷が欲しかったとのことで連れてきましたが、なかなか言うことを聞かなくて」
そこまでの説明でようやく頭の中の記憶が繋がる。妖の粛清は確かドラマで蒼翠が初めて登場したシーンでのエピソードだ。「なぜ皇子である俺がゴミの相手をしなければならないのだ」と、不満を漏らしながらも見つけた妖を嬉々といぶり殺す姿が強烈な印象に残っている。
あの時は確か「わー、ヤベー奴出てきたよ。絶対コイツクズ系の悪役で、主人公に絡んでくるわー。面倒臭そう」と言った記憶がある。
と、それはいいのだが―― 。
「え、それってもしかして……」
妖の討伐が先日の話だとするなら、今は時期的にドラマが始まったばかりのはず。その頃に蒼翠が誘拐した子どもといえば。
――もしかしなくても、その子どもは無風だ!
ドラマ最終回で蒼翠を討ちに行く――いや、こちら側からすれば殺しに来る、金龍聖君の主人公であり将来の白龍族皇太子。
――まずい。これは非常にまずい!
蒼翠になった驚きに心を囚われすぎていて、自分がどういう状況に置かれているのか考えることをすっかり失念していた。臣下の言葉から察するに、今は幼少時代の無風をさらってきた直後。それだけでも最悪だというのに、すでに暴力まで振るってしまった後だなんて。
最悪としかいえない展開を前に、身体中の血液が凍っていくのが手に取るようにわかる。
「こ……こ……」
「こ?」
恐怖と衝撃に全身を震わせる蒼翠を前に、配下が首を傾げる。
「この馬鹿者がっ! 何を勝手なことを!」
蒼翠は怒りに双眼をカッと見開き、怒鳴り声を上げた。
「そ、蒼翠様っ?」
「すぐに子どもをここへ連れて来い! 薬も用意しろ! アレは私の側仕えとして置く者だ。今後勝手をすれば、お前のその首と胴が再び出会うことがなくなると思え!」
自分でも驚くぐらい蒼翠が言いそうな言葉が自然と出てきた。これは本物の蒼翠の部分がまだ残っているのか、はたまたドラマ鬼リピの賜か。
が、今はそれよりも無風だ。
「も、も、申し訳ありません! 今すぐ連れて参ります!」
配下は真っ青な顔で踵を返すと、目にも止まらぬ豪速で部屋の外へと駆け出した。
部屋に一人残された蒼翠はその場に膝を崩して座り込み、両手で頭を抱えて唸る。
なんということだ。この世界に馴染云々の前に、立派な死亡フラグが立ってしまった。一体ここからどうすればいい。美しい長髪を指で掻きむしりながら唸り続けるが、ここに蒼翠に手を差し伸べてくれる者は一人もいなかった。