「……西条か」
声だけで誰かすぐに分かった和臣は、面倒な奴が来たと眉間に軽く皺を寄せながら振り返った。
「何か用か?」
「いや、用はないんですけど、外来終わって帰って来たら先生の貴重な指切り姿が見えたので」
立てた小指を小さく揺らしながら西条が微笑む。
やはり見られていたか。よりによって一番見られたくない人間に目撃されたことに、舌打ちが出そうになった。
「それで、オレをからかうつもりか? いい度胸だな」
「わー、相変わらず辛辣ですね。俺そろそろ本当に心折れちゃいそうです」
数日前の夜の空虚が幻かのような、“いつもの“明るい西条が、冗談混じりに笑う。
ーー今回ももう大丈夫みたいだな。
もうすっかり自分を取り戻した西条を見て、ホッとする。
と、同時にあの日のことを思い出した和臣の心に、冷たい風が吹いた。
二人で肌を重ねた翌朝、和臣が目を覚ますとすでに西条の姿はなかった。代わりにあったのがリビングのテーブルの上に置かれた、小さなメモだけ。
『東宮先生。ごめんなさい。もっと強くなります』
冷え切った部屋の中、和臣はメモを片手に乾いた笑みを零した。
セックスした次の朝、西条が和臣の起床を待っていたことはない。毎回、ことが終わった後、すべての後始末をしてそのまま帰るのだ。それは一見、西条の優しさのように見えるが、多分違う。
西条は嫌なのだ。和臣の寝顔を見ることが。
悲しみの深闇を性欲でなんとか蹴散らして我に戻った時、きっと同性とのセックスに西条は強い嫌悪を覚えているに違いない。
だから帰ってしまうのだ。
しかしその代わり、その次に会う時、西条は小児科医の顔を取り戻している。朝、一人で目覚めることは酷く寂しいが、目的は達成できているので何一つ文句は言えない。いや、言ってはいけない。
「心でも聴診器でも勝手に折ってろ。用がないなら行くぞ」
「わっ、待って下さい。ちゃんと用はありますから」
背を向けて歩き出そうとした腕を、唐突に掴まれる。
「何だ?」
「先生、今日の夜時間ありますか?」
確か今日は日勤ですよね、と最初から和臣の勤務予定を知っている素振りで聞かれる。
「夜? ああ、あるけど」
ざっと頭の中で自分の予定を思い出してみるが、今日は医局に残ってやっていく仕事はない。しかし何故そんなことを聞くのかと疑問に思った時、ふと和臣の頭にもしかしてという言葉が浮かんだ。
「……何かあったのか?」
西条から誘いがあるということは、また心で受け止めきれない悲しみに直面した可能性が高い。ならばどうにかしなければと口を開きかけた時、ハッとした顔を見せた西条が大きく首を振った。
「違います、違いますっ! 単純に先生と食事に行きたいと思ってのお誘いです。先生にはいつもお世話になっているので」
ただ純粋に和臣と食事したいという西条に、和臣は内心ホッと胸を撫で下ろす。
「……別にそんなこと気にする必要はない。お前を指導してるのは万年人手不足の小児科のためだ」
たとえ半人前だろうが辞められては困る。これは和臣自身の欲望のためだけでなく、小児科のための言葉でもあった。
小児科は成人科のように細分化されていない総合診療の要素が高い科であることから、全身の医療知識を身につけなければならない。さらに治療結果が満足いかず、訴訟へと発展することも多いため、若い医師から敬遠されがちで人材が不足しているのだ。
「本当、先生って厳しさしかありませんよね」
「文句が?」
「いえ。俺は先生のおかげでここに居られるんですから、文句なんてありませんよ。でも、一人の後輩として誘うぐらいは許して欲しいなって」
「……毎回言うが、オレとメシに行ったって楽しくなんかないだろう」
西条とは別段、身体だけの関係ではない。同じ医師同士、時間がある時に飲みに行ったりすることもある。が、なぜいつもこの男が誘ってくるのか不思議で堪らない。
自分で言うのも何だが、こんな偏屈で厄介な人間と食事なんて、息が詰まるだろうに。
「俺は楽しいですよ。先生と二人だと落ち着いた時間を過ごせますし、何より仕事中では聞けない貴重な経験談も聞けますから」
だからお願いしますと、耳が垂れ下がった子犬のような目で請われると、瞬く間に断るという選択値が弾け飛ぶ。
これも惚れた弱みの一つなのか。
「……はぁ、分かったよ」
「やったぁ。じゃあ終わったら更衣室で!」
食事の約束を取りつけて喜んでいる西条に、こんなことではしゃぐなんてお前は子どもか、と呆れ顔を見せてから医局へと向かう。
置いてけぼりを食らった男は背後で待って下さいよと騒いでいだが、足は止めなかった。それは意地の悪い光景に見えたが、実は誰も見ていない和臣の頬がいつもより幾分も緩んでいたので、仕方のない話だった。
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