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神殿から持ち出した金貨のほとんどを払うことにはなるが、それでも一年は働かなくてもそれなりに暮らしていけるだけの余裕を持っている。彼女にとっては冒険者としての稼ぎやイーリスの大魔導師への道など様々な未来への先行投資に過ぎない話だ。金額など払えるのならば大した問題にはならなかった。
フィルはイーリスを見たが、彼女もニコニコして頷くだけ。わざわざ払うと言っているなら断る理由もなかったし、契約書に署名をもらったら満足そうに「では明日の昼頃に商館のほうへお立ち寄りください」と資料を片付け始める。
話がまとまったら、ひとまず彼女たちはギルドへ戻ることにした。
「少し不安そうだったね、フィルさん」
「まあ、出所の分からない金だと思ったんだろう」
羽振りの良い高貴な身分のもとで働いたとしても、まだ若い女性が数年で稼げる額ではない。プラチナランクへ到達した収入の多い冒険者でさえ貯蓄して購入するのに何年かは掛かるだろう。それを明日の昼には全額払うというのだから、フィルが契約を交わしながらもいくらか不審に思ったとしておかしな話ではなかった。
「だが目に見える大きな金の流れなど調べれば分かることだ。都の神殿に行けば問題ないことを証明してくれる神官もいるから、私たちは堂々としていればいい。イルフォードでは目立つかもしれんが、なんとかなるさ」
うわさになれば瞬く間に彼女たちが冒険者で──それもブロンズの──身なりも平凡であることに人々は驚くだろう。裕福とは縁遠い二人がコボルト二匹を連れてイルフォードでも有数の土地で暮らしていれば、誰でも不思議に思うはずだ。
しかし、そんな状況もフィルの言葉ひとつでどうにでもなるし、協力をとりつけられる自信が彼女にはある。
「……そういえば、これからいっしょに生活するならコボルトたちに名前を付けてやらないとな。奴隷の番号札など口にするだけでも汚らわしい」
二匹とも嬉しそうに尻尾を振る。
「なまえ、くれる? ほしい!」
杖を握り締めてそう言われると、彼女もにこやかになった。
「では良い名を考えておこう。君たちが暮らす新しい家と共に贈るよ」
一度人間に捕まったコボルトは通常、二度と笑顔を浮かべることはない。魔物というだけで、どんな扱い方をしても構わないと思っているような人間たちに買われ、不要になれば殺される。彼らのように傷の浅いうちから生き延びられる幸運が訪れることは、本来ならあり得ない話だ。
(……静かに暮らそうとしたがゆえに奴隷。かといって群れからロードが生まれれば戦わざるを得ない。大人しいコボルトにとってはどちらも地獄だな。しかし、奴隷商のほうは手を打てば良い話だ。さっさと片付けるべきか?)
頭を悩ませつつ、ギルドへ戻ってきたら、まっすぐ宿舎へ向かった。夜も遅くなって酒場は騒がしく酔っ払いたちで溢れていて、わざわざ戻って来たヒルデガルドたちに絡もうとするよりも酒と油で胃を満たすのに勤しんでいる。
「さ、着いたぞ。少し狭いが今晩だけ我慢してくれ」
借りたのは二人部屋で、ブロンズランクは多少広めの間取りになっているが、ベッドのおかげでいささか詰まっている。ただひと晩を過ごすだけならじゅうぶんだろうと他の部屋を借りようとはしなかった。それでもコボルトたちは寒さをしっかり凌げて安心できる場所だと喜んでいた。
「はあ。セリオンの件で落ち着いたかと思ったけど、まさか冒険者の中に奴隷商と繋がりのある人たちがいるなんて驚いたよ。また忙しくなるね」
コボルトたちは疲れからか、あっという間に寝息を立て始め、ベッドに潜ったイーリスが二匹を見て眉をひそめる。話に聞いたことはあったが、実際にそうして扱われている彼らを見るとあまりにも可哀想に感じた。
「世間は思っているより狭く、淀んでいるものだ。……イーリス、人を見る目を磨け。それがきっと、これからの君を支えてくれる大事なものになる」
差し込む月明かりに、ヒルデガルドは胸中で後悔を抱く。記憶は欠け落ちていたし、はっきりしたことは分からなかったが、それでも自分を殺そうとした誰かに心当たりがあったから。そして、自分はその誰かを深く信用してしまっていた。そんな行いなど決してすまい、と。それゆえに胸が痛んだ。
「……さあ、もう寝よう。私たちも疲れを取らないとな」
「うん。おやすみ、ヒルデガルド」
「おやすみ、ゆっくり休めよ」
寝息が聞こえ、しばらくしてからヒルデガルドはそっとベッドを出た。さほど疲れてもいなかったし、あまり寝たい気分でもなかったのだが、自分が起きていればイーリスも起きて無理をしてしまうだろうから寝たふりをしていた。
二匹のコボルトは物音に敏感で、些細な動きにも反応して目を開ける。部屋を出ようとする新しい主人について行くべきかと立ち上がろうとするのを彼女は首を横に振って制止した。「ゆっくり寝ていなさい。君たちも疲れてるはずだ」と。
それからギルドの酒場へ向かって歩き出す。
「そうだ、ついでにプリスコット卿に手紙を送っておこう」
持ち出したローブを着て、裾を靡かせながら。
「どこの誰か、私自身も調べる必要があるかもな」