【肆と診療所】
九ノ巻〚行方不明〛
*
雀の軽やかな鳴き声に起こされ、閉じた目を開ける。
(朝か……)
管太郎は目をこすった。
昨日は本当に疲れる出来事が多かった。
ふと目をやれば、もらった短刀が目に入る。
(あのおじさん、なんで短刀なんかくれたんだろう)
短刀とて、決して安いものではない。
それを見ず知らずの遊郭で働く不審な男子にあげるなど、彼も彼で変人である。
(なにか意味があったとしても俺はそれを知らないし、何と言っても興味がない)
短刀を誰かに送るなど聞いたことはない。
簪や櫛を意中の相手に送れば、告白の意を示すことになるのは知っていた。
と、ふと思い出すのはあの赤々とした櫛を思い出す。
先日の任務で、伊崎が男にもらったものだ。
それも、大御所の若様に。
彼女はそれを受ける気でいるのか、それともなんとも思っていないのか。
(あの人のことだから、面倒事だとでも思っているだろう)
と思いながら、その人の方を見た。
が、敷いてあるはずの布団はきれいに畳まれ、そこに彼女の姿はない。
少し驚いてから、彼も布団を畳み、着替えた。
障子に手をかけ、開けようとしたが、ぴたりとその手が止まる。
(そういえば俺、伊崎いないと何も動けない)
まず、葉色と唯を起こそうにも、勝手に女子二人の部屋へズカズカ入るのは流石に無理である。
そして二人を起こさなければ何も始まらない。
勝手に起きてくればよいが、唯は心配だ。
誰かに起こされなければ起きない質の彼女は、葉色に起こしてもらう他ないのだ。
普段は、伊崎や管太郎が起こしている。
なぜ葉色が起こさないのかというと、性格の控えめさがそれにも出、起こすときは優しく肩をたたいて起こすのだ。
それに効果がないから、他二人が起こしている。
(唯起きなかったら、葉色俺のところ来るかな?)
と思い、部屋の障子をかっ開き、自室に籠もる。
副長の霜月はどういう様子か、見に行こうかとも思った。
が、彼は「私は鶴なので」と昨晩寝る前に言っていた。
その意味とは、障子を開けるなということだ。
彼のことだから部屋で仕事でもしているんだろうが、人に見られるとしづらい質にあり、部屋に入るな、と言いたいのだろう。
(つまり俺は今無法地帯と同然)
所謂体育座りをしてぽつんと居る管太郎。
そしてハッと思いつく。
(伊崎が勝手にどこかへ行ったなら、俺も行っても大丈夫な“はず”!!)
大丈夫ではない。
勝手にいなくなったから今君が困っているんだよ、ともしここに誰かいたなら言ってほしい。
が、勝手で自由な伊崎に巻き込まれる管太郎はいつも生真面目にしている。もう今くらいいいか、と吹っ切れているのだ。
(怒られるときは一緒に怒られようね)
そう覚悟し、管太郎は部屋を出た。
*
広い庭園の見える部屋。
空はもう全くの青なのだが、その部屋には布団を敷いて誰かが寝ている。
その誰かというのは、緑がかった『ぴよん』の髪の毛に、ツンツンとした睫毛を目に乗せたような人だ。
そんな人、この江戸を探しても一人しか見つからない。
伊崎である。
彼女はぱちりと目を開き、愕然と驚く。
天井は見たことのない天井。
起き上がってみると、横から「ちょっと」と声をかけられる。
「まだ起き上がっちゃだめですよ。熱があるんですから」
少し強めの言い方である。
面倒を見させられているから、悪化させたくないのだろうか。
伊崎は眉を寄せた。
そして自分の着ている着物を見る。
普段着の緑の袴とは違った。
「ここは一体どこだ。お前は誰だ。全部洗い浚い話せ」
初対面の人にそういった口を聞けるのは彼女だけだろう。
額に乗っていた手拭は布団に落ち、それをその女が取る。
女は眉を釣り上げて言った。
「この家の三男坊様が、あなたを拾って帰ってきたんです。それも早朝に。あなたは熱で倒れていたんですよ」
「熱?」
「キツくないのですか」
伊崎は目を逸らした。
自分に都合の悪い事があるとき、彼女はそうして目を逸らす。
(体調不良の感覚が鈍くなっているんだよな……)
そう思いながら思い出すのは、幼い頃の記憶。
*
あれは、まだ診療所に入る前の話だ。
伊崎は江戸城の姫様で、姫としての手習いなどで忙しかった。
琴、三味線、裁縫、盆栽、華道、茶道………。
一日にどれだけのことを覚えさせられるか。
つまり、一日寝込むだけで相当な損害があるのだ。
そのため、熱が出ようとも寝込むことはできなかった。
ある日幼い伊崎、その頃の名は菊、は熱があると朝から自覚していた。
そのため、起床後すぐに御手付き侍女の尚に言った。
尚は「旦那様に聞いてきます」と言って、返ってくるとすぐに首を横に振った。
「一日くらいは頑張りなさい、とのことでした」
菊は熱があっても手習いはやれと言われたのだ。
それから、彼女はどんなに熱があろうとも、寝込むことを許されなかった。
そのため、尚や他の侍女に体調不良を言っても無駄だと思い、報告をやめた。
また、我慢することが大抵になった。
そんな我慢を続けるうちに、彼女はキツいという感覚に鈍くなったのだった。
*
(嫌な記憶、思い出しちまった)
先日の、弓削千六良に姫だとバレた案件もあり、江戸城に行ったこともあり、嫌な記憶が頭を掠めることが増えた。
すると、横にいた女が伊崎の肩を抱いた。
というか、優しめに押し倒した。
「寝てください。早めに治らないと、本当にキツくなりますよ。……まあ、元より大分な体温ですが」
「いや、帰らねばならん。ここのその三男坊様とやらをお連れしてはくれんか」
「無理です。三男坊の賈乃亮様が、『治ってから帰せ』と仰ったので」
「治った」
「嘘おっしゃい」
「というか、賈乃亮様って……。この家はもしかして」
伊崎は頭だけを動かし、部屋の壁に飾ってある立派な日本刀を見た。
女は頷く。
「汐見家です。汐見賈乃亮様が、あなたをお助けしたのです」
汐見賈乃亮とは、昨日管太郎に短刀をプレゼントした遊郭の客だ。
伊崎はそれは知らないが、汐見という名は知っていた。
さすがは江戸城の姫である。政治的な人の名は覚えている。
そのため伊崎は顔をしかめた。
が、すぐに噎せて咳き込む。
女が慌てて体を起こし、背中をさすってやる。
「早く帰りたいなら、早く治してください。そのためには、休まないといけませんからね」
「あいあい。重々承知だよ」
伊崎は自分から布団に体を埋めた。
(熱出すなんていつぶりだ?……否、気付いていないだけで、多分、何度でも熱は出しているんだろうが)
こほっと小さく咳き込むと、女が額に手拭を乗せた。
ひんやり冷たく、気持ちが良い。
「私はあなたの看病役を頼まれました。この家の侍女の葵と申します」
眠れない伊崎は、暫く葵の観察をしていた。
すると、彼女がどんな人か大抵分かった。
生真面目でよく働き、純粋な娘。
仕事第一であり、洒落た着物も着ていないし、髪型も凝っていない。
何事も切りがよく終わらせたいらしく、『曖昧』という言葉が嫌いそうである。
口調にもそんな性格が出ており、常にシャキシャキと喋っている。
のろのろ喋る葉色とは正反対と言ったところか。
(頭痛がある中、この喋り方はあまり好ましくない。が、葉色のようにのろのろ喋られても、理解するのに時間がかかり、会話が読み込めない)
段々と自分の体調不良を自覚する伊崎。
しかしそれと同時に襲いかかる、心配の波。
(あいつらに全部任せっきりだな……。今回は私の役目が多かっただろうに。申し訳ねぇな)
と思っても、どうにもならない。
あの四人ならどうにかしてくれると思い、考えるけどやめた。
また、自分が仕事をせずに済んだというふうに考えることにした。
(その分、体調は悪いが)
とまらない咳と頭痛。
だるさには疎い伊崎でも、多少のんめりとした感覚がある。
「寝ないのですか」
ついに葵に言われた。
「そんなに起きてちゃだめなのか」
「いや、眠そうなのに寝ないなんて、変だと思い」
「……ん、眠い。だが、痛い」
伊崎は段々声が小さくなった。
最後のあたりはほとんど聞こえず、「ハキハキ喋れ」と言わんばかりの形相で、葵が「はい?」と聞き返してくる。
が、布団に顔を埋め、何かに耐えるような伊崎の様子を見て詳しく聞かないようにした。
(頭痛か腹痛か……。もしかして嘔吐?だったら桶も用意しよう)
葵はそう考え、部屋をあとにした。
伊崎は一人になっても、この部屋から抜け出そうとは考えなかった。
それどころではなかった。
頭痛の波が酷い。
(こりゃあ……、三日は帰れないかな)
今回の遊郭は、十日もいなくて良かったらしいので、五日ほどで帰ろうと思っていた。
が、その殆どを布団の中で過ごすことになるかもしれない。
また、遊郭の流行り病を解決することも大事だ。というか、それが仕事だ。
そちらのことを考えたくても、頭がそうしてくれない。
それにイライラして、伊崎は布団を握りしめる。
(バッカ)
何に誰に対してからわからない。
というか、何に対しても誰に対しても向けた言葉じゃないのかもしれない。
が、伊崎はその言葉を思いながらまぶたを閉じた。
葵が桶を持って帰った頃には、伊崎は寝息をたてて眠っていた。
気持ちよさそうには眠っていないが、とりあえず眠れてよかったと思う。
(早く治ってくださいよ)
葵は頬杖をつきながらそう思った。
*
「何やってるの」
唯の声がした。
管太郎はびくりと体を震わせ、後ろを振り返る。
まだ眠そうな唯と、いつも通りの葉色が立っていた。
こっそり部屋から抜け出してきたつもりだったが、二人が顔を洗いに行った時間と被ってしまったらしい。
「おはよう、管太郎。ところで、伊崎は一緒じゃないの?」
葉色は聞いた。
と、唯も「そういえば」とキョロキョロ辺りを見回す。
「ふたりとも、伊崎がどこかにいって帰ってきてないんだ。一緒に探してくれないかな?」
「あれっ、いないんだ」
「うん、探すよ」
二人は頷き、にこりと微笑んだ。
結局のところ、見つからなかった。
そりゃあそうである。
彼女は汐見家へ攫われたようにいなくなったのだから。
朝餉は霜月を含めた四人で食べ、その場は静かだった。
「そっか。伊崎ちゃん、いなくなっちゃったんだ」
霜月が、漬けすぎて辛くなった沢庵を食みながらいう。
「そう。攫われたのか……自分からいなくなったのか……」
唯もいつも通りの元気はない。
しょぼくれているのだ。
「でも、任務はちゃんとやらなきゃいけないよね。……内科医の伊崎がいないのに、大丈夫かな……」
葉色も不安の声をこぼし、その場はまた静かになる。
管太郎はニコリと笑った。
「大丈夫だよ。伊崎のことだから、きっと大丈夫。俺達は、任務のことに集中しよう」
唯も葉色も、伊崎ことは信用している。
だから、そんなふうに言われると何も言えない。
しかし、やはり心配もある。
もし攫われたのでもあれば、一大事だ。
(……気にしてもしょうがないけど……)
唯は口を噤んだ。
四人の食膳は、あまり減っていなかった。
*
食後、同じ部屋に四人集まって会議を開いた。
仕切るのは霜月だ。
「この紙に、症状の当てはまる病を全て書くんです。症状全てとその病の名が合えば、その病でほぼ確定ですね」
にこりと微笑む霜月。
つまり、例えば鼻水という症状だったら、風邪……などと一つ一つ書くのだ。
それをあの全ての症状に書き、同じ病名が並べば、その病気でほぼ確定だという。
「へぇ!そんなやり方あるんだね」
唯は興味津々で紙を取る。
一人一枚紙があるのは、専門医によって知っている病が違うからだろう。
「けどやっぱり、内科医の伊崎がいたほうがわかりやすかったかな……」
葉色は墨壺を取り出して不安げに言う。
それを笑顔で庇う管太郎。
「大丈夫だよ!四天王はたしかに四人いて四天王だけど、俺達だってちゃんとした知識はあるわけだし!」
霜月は笑った。
精神科医の一番の薬は言葉と笑顔。
今の管太郎は、唯と葉色の二人の精神を晴れやかにすることが仕事なのだ。
それに気づいているのは、同じ精神科医の霜月。
(管太郎くんはしっかりしてるなぁ……)
目を細め笑うと、いつものにこにことは違った笑みになる。
彼の本物の笑みはこれである。
*
筆を置き、髪を皆の中心に置く。
ふと、管太郎は一枚の紙を手に取った。
葉色の紙だ。
「葉色、この『淋病』って何?」
おりものの変色、不正出血、男性の排尿時の痛みの三つに書かれた、淋病という字。
葉色以外の三人はあまり何も書けていない。
「あっ、それね……。性病のひとつなんだけど……」
唯は目を丸める。
「性病って、あの梅毒とかの?」
「そう。梅毒の次に有名なものなんだけど……。こういう症状があるらしい……」
管太郎は初耳で、興味深そうに相槌を打つ。
「ちなみに、鼻水とか喉の痛みとかの症状はないの?」
「書物には書かれていなかったかな……」
その場がしゅんとなったとき、霜月が口を開いた。
「残りは鼻水、喉の痛み、目のかゆみだよね。それなら、私は知ってるよ、これ」
紙を覗き込むと、『花粉症』の文字。
三人は頭を捻る。
「なにそれ?」
「聞いたことないかな……」
と、管太郎が思い出したように手を叩いた。
「知ってます!それ、花の中心にある花粉という粉が体内に入ることで起きるやつ……!」
「そうそう」
「それって伝染るの?」
唯の質問に、管太郎は眉を下げて首を振った。
「伝染らないね」
霜月が答える。
花粉症とは、最近でこそ有名になったものだが、昔はそうでもなかった。
そもそも、それを知っている人が少なかったのだ。
伝染らないとはいえ、全く花粉症の患者がいないわけではなかった。
だが、本当に、気付かなかっただけなのだ。
「ん?」
唯は頭を捻った。
三人は唯を向く。
「なんか、昨日管太郎言ってなかった?伝染ったわけじゃなくても、その気になってその症状がでるやつがあるって。ほら、管太郎が熱出して私が頭痛くなったときみたいな」
「ああ!」
管太郎は顔を明るくした。
「それだ!もしかしたら、淋病と花粉症が一気に流行ったのかもしれない!」
三人も頬を染めた。
つまり、もともと淋病がこの遊郭で流行っていたという。
しかしそこに、この秋季節特有の杉花粉。
確か、伊崎は建物の裏で杉の木を見つけていた。
花粉症とは、自覚はなくとも症状は出るものだ。
鼻水、喉の痛み、目のかゆみ。
それは一見風邪に見られがちで、皆江戸の住民は風邪として取り扱う。
が、本来は花粉症なのかもしれない。
不思議に思わないだろうか。
現代ではあんなにも花粉症患者がいるというのに、昔は一人もいなかったなんてことが。
つまりそれは、花粉症の存在を知らなかっただけ。
しかし、管太郎の言ったように、身の回りにその症状の患者がいれば、自分のその症状を起こすことがある。
はたと自覚するのだ。
つまり、三人の予想では、この流行病は二つが同時に流行ったのだった。
一つは淋病という性病。
一つは花粉症。
その二つが同時に流行ったことで、同じ病気だと錯覚したのだった。
「それが確かなら、その対処だねっ!」
唯は葉色を見た。
「うん。薬の処方は任せて」
「薬の処方と……。あとは、やっぱり」
管太郎は苦笑い。
「食膳の改善」
*
台所に立った唯、葉色、霜月の三人。
眼の前に並ぶ色とりどりの野菜。
綺麗に洗われた調理器具。
窓を開け放った部屋。
(もともと清潔感がない部屋だったなあ)
霜月は手を洗いながら思った。
味も栄養管理も0点だったあの食事。
改善する予知、ありまくりなのである。
部屋掃除から初めて、器具消毒までした。
ちなみに、ここで働く遊女たちは暫くの間性交を控えさせている。
淋病とは性交にて感染するものである。
「昼餉は沢庵と味噌汁、麦飯とだし巻き卵かな……」
葉色は材料を見ていった。
適当に侍女のような女に買い物を頼んだのだが、作れるものがそれくらいだった。
江戸城であれば粥などの豪勢なものを作れたのだが、ここにはそんな金がないらしい。
遊郭は吉原などがやはり有名どころだが、この喜多原は然程有名でもない。
また、その中の店の花がらは、客層はいいが客数が少ない。
千六良や賈乃亮などのお偉い方が多いのだが、来客数は少ないのだ。
「よぉし、美味しいごはん作ろっー!」
唯は袖をたくし上げ、二人もニコリと笑う。
ところで、管太郎はどこへやら。
*
彼はその頃、伊崎を探していた。
血塗れになりながら。
*九ノ巻〚行方不明〛完
(漢字表記)
質(たち)
尚(なお)
疎い(うと−い)
淋病(りんびょう)