病気治療は教科書どおりにいかない。常にイレギュラーが生じるものと考えるべきだ。それは長年従事してきて頭に染みついていたはずだったが、いざその変則に直面すると、いくら医者でも驚くほど動揺してしまうものだ。
ピッ、ピッ、と規則正しい電子音が響く部屋に、朝の白い日差しが届いた。
ふとカーテンの隙間から零れる光に目を遣って、もう夜が明けたのだと知る。
夏の朝は早い。午前四時を過ぎれば空は深藍から露草色へ変わり、一気に強い日照りと蝉の大合唱の世界へと変貌を遂げる。おそらく窓の外では、多くの人の活気に満ちた日常が始まっていることだろう。
そんな多くの生命が放つ強さを、ほんの少しでもいいから分けて貰いたいと思ってしまうのは残酷なことか。和臣は視線を窓からベッドに戻して、ギュッと拳を握る。
――どうしてあの時、気づかなかったんだ。
ベッドライトに照らされている顔は白粉でも塗ったかのように蒼白で、触れたら指が凍ってしまうのではないかと恐怖を覚えてしまった。
「頑張れ……頑張れ、瑞紀君」
苦しそうな呼吸音を延々と紡ぐ幼子を、和臣は何度も励ます。
昨晩、病棟からかかってきた電話は、瑞紀の急変を知らせるものだった。夜の検診までは何事もなく過ごしていたのに、消灯時間を過ぎてすぐに突然意識混濁状態となったそうで、異変にいち早く気づいた看護師が夜勤の医師に伝えたのだが、当直を担当していた研修医には原因を特定することができなかったため、和臣に緊急連絡が入ったのである。
話を聞いた和臣は電話で指示を出すと、すぐに店を飛び出して病院へと舞い戻った。そして診察した結果、瑞紀はRSウイルスに感染していることが判明したのだ。
RSウイルスは冬場に多く見られる感染症で、風邪の初期症状から発熱に移行するのが一般的とされている。小児に多い病気のため診断がつきやすいものだが、症状によっては別の病気を疑ってしまうこともある難しい病気だ。しかも今回の瑞紀のように短期間でいきなり肺炎に至るまでの重症化例は稀なため、新人医師では判断がつかないのは当然だ。
現在、瑞紀は和臣が適切な処置を施したため落ち付き始めたものの、予断は許せない状態だ。
「もうすぐお母さん来るからな」
懸命に病気と戦う小さな身体に、和臣がそっと語りかける。
瑞紀の保護者には夜中に病院から連絡を入れたが、今両親ともに離れた県まで祖母の世話に行っていて、すぐに来られないと言われた。それでも今、急いで戻ってきているとのことだから、昼前には到着するだろう。
「ごめんな、昨日の時点で気づいてやれなくて……」
和臣は謝りながら点滴の針が痛々しく刺さる手を優しく撫でた。その指が微かに震える。
――オレのせいだ。
昨日瑞紀に触れた時、少しだけ体温が高かったことに気づいていたのに、走り回っていたからだと決めつけた。もっと早く気づいていればここまで重症化は防げたかも知れないのに。
ーー瑞稀くんに何かあったら。
不意に夕立の暗雲のごとく暗い闇が心に落ちた。続けて脳裏を過ぎったのは。
『先生、どうしてうちの子が死ななきゃいけないんですか!』
顔中を涙で濡らし、美しい長髪を振り乱しながら泣き叫ぶ一人の母親の顔だった。
――あれからもう七年か。
それはまだ西条が小児科にいなかった頃の話だ。
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