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【廿伍話】
私の脳裏に蘇ったのは土間の窓から見える桃色。
遥が私の為に自ら植えてくれた木。
窓に付着した白い液。私は条件を飲む振りをして紅茶を出した。
乳と樹液の混ざった淡い色彩の茶を飲むなりもがき苦しみ、心臓を掻き毟り、彼は呆気無く逝ってしまった。
――半信半疑だった事が確信に変わる。
ずっと支配される側だった私が圧倒的な力を得て
相手の命を支配すると云う事に酔いしれていたのかも知れない。
とても恍惚とした胸の高鳴りを感じておりました。。
しかし溜飲を下げたのも束の間、今度は死体の処理に困り、彼を縁側近くの池に放り込んで棒でつついて橋の下の死角まで流して
そこから動かない様に手首と橋桁を縄で繋ぎました。
それから暫くは平和でした。容子さんも男が突然失踪したものだから何か嫌な予感をしたのか以前の彼女の様に従順に働いてくれていました。
でも今年の四月の十二日、忘れもしないわ。
遥の提案で須藤さんに休暇を出していってらっしゃい、と皆で門まで送り出しに行ったその日から毎日あの子はこの家の権利書を探し出したの。
幾ら云っても「慰謝料だ、足掛かり金だ」と聞かなくて家中滅茶苦茶になりました。挙句、勝手に蔵に入り着物を売り払う始末。閉じ込めて説得しても一向に変わらずで。
私は疲れていました。いえ、何処かで殺戮を楽しんでいたのかも知れない。
遥には粉薬を飲ませ、朦朧とした所で、前もって遥がきちんと瓶に詰めてく れていた男を殺すのに使った脱脂粉乳の粉を――容子さんに渡して――
容子さんの体は軽く、私でも抱きかかえて行ける程の重さでした。
蔵の、彼女が売り払った着物の入っていた長持に彼女を入れておきました。
それから三日経った五月十日の朝、今度は涼子が匿って欲しい人が居る、と
一人の男を連れてきました。男は何でもします、と力無く私に頭を下げた。
誠実そうな人だった。だから私はあの人の事情を聞き、私の現状も話すと
彼は「分かった」と言い、二つの死体を車に積み込んで行ってしまいました。
そして帰って来るなり――彼は――彼は―――。
***
突如彼女は青い顔をしてゆらりとゆれた。
吐き気がするのか口元を押さえていた。
「大丈夫ですか!」
樋口が駆け寄り、彼女の肩を支える。
「あの人も、私の所為なのでしょうか――」
彼女は誰に問うとも無く囁く様に云った。
「これが私の知る全てです。ひょっとして皆、皆、私が殺してしまったのかも知れない――」
彼女の瞳孔は開きっぱなしで酷く危うい、危うい顔をしていた。
「私は何故生きて居るの――のうのうと――何の為に――」
ふらりと彼女は歩き、土間のある方向へ行こうとした、
その虚ろな彼女にそっと近づいた野々村はその彼女の青白い頬を
腕が反る程の勢いをつけて打った。
彼女は悲鳴を上げて床に倒れる。
「馬鹿者!逃避するのもいい加減にしろ!」
志津子さんは驚いて動けないのか自分を見下ろす野々村を只、惚ける様な顔で見ていた。
「大事な所でそうやって逃げるから更に事態が悪くなるんじゃないか!」
彼女は未だ動かない。
「あの人は蔵で首を吊って――」
「違う!今はそんな事を云って居ない!貴方は何処まで馬鹿なら気が済むんだ!」
「え?」
野々村は視線を日下部に向けた。日下部は頷き、外へ出て行った。
静寂が耳に刺さる。皆は話を聞いて疲れたのかあちこちで溜息が聞こえた。
其処へ玄関からの声が流れてくる。
「足元にお気をつけて――」
「あいよぅ――」
枯れた声、ゆっくりした歩調、ゆっくりと床を踏みしめ、
この居間の襖を開けた。
「貴方は!」
最初に声をあげたのは志津子さんだった。
その声を受けて腰の曲がった老婆はゆっくりと深く頭を下げた。
そして視線をゆっくり巡らせると途中で止め、
遥さんににっこりと微笑んだ。
「たった一言証言して頂く為にわざわざお越し頂きました。」
野々村は老婆に深く頭を下げ質問した。
「貴方は十七年前、この女性の出産に立ち会いましたね?」
「ええ、はっきり覚えておりますよぅ、綺麗なお人だけんねぇ」
「その時、子供はちゃんと産まれましたか?」
「え~え。産まれましたとも。綺麗な綺麗なお顔の女の子でしたよぅ。
口元に黒子のある――あの子じゃろ?大ぅきくなってぇ、まぁ。」
老婆は遥さんを見て慈愛に満ちた顔でそう云った。
「お母さんが余りにも衰弱しておったもので、お父様が心配なすって
母が回復するまで安静にさせる、ゆうて産まれたばかりの赤ん坊を
何処かに連れて行ってしまったけぇ、心配しておったがお元気で良かったぁ」
老婆はそれはそれは感慨深そうに二人の親子を見比べて云った。
「あ、あああ、、ああ、あああ、ああああ――――」
腰が抜けた様に彼女はゆっくりと床に座り込んだ。
目には沢山の涙が溜まって今にも零れ落ちそうだ。
「何故産婆である彼女の傍に行き、真実を聞かなかったのか!」
「だってあの人は――それに現実を、、見るのが怖かった――」
「誰も貴方の子では無いと言って居ない!貴方が臆病さ故に勝手に早合点しただけだ!あの時直接聞いていれば今頃こんな事には!貴方の云う幸せは其処に在ったのに!」
「ああ、、ああ、あああああ、ああ――」
言葉にならない声が、涙と云うには余りにも大きすぎるその水滴が沢山沢山畳みに染みを作っては消えた。
誰も口を挟めなかった。慰める事も責める事も出来なかった。
私達は打ちひしがれる彼女を囲み、只、眺めているしか出来なかった。
「遥――ご免――なさい。ご免、なさいねぇ――
馬鹿な母で――ご免な――」
志津子さんは未だ少しも止む気配の無い涙を流し、遥さんを見た。
交わる視線に戸惑い、返事も出来ずに悲劇の娘は母親から目を反らした。
救いの無い結末。
もやもやとした不快感が胸を締める。それでも解決を得た、と云う事で
一様に息を潜め固まって話を聞いていた面々が一斉にその身の緊張を解いた。
同じく樋口も心に何かを詰めたまま、未だ打ちひしがれている志津子さんの腕を取り耳元で何か呟いた。
見詰め合う二人。力の無い視線が絡まる。
彼女は深い深い溜息の様な深呼吸の様な呼吸をした後、ゆっくりと頷き、立ち上がった。
その様を見守りながら日下部に合図を送るとそれを受けた彼は外に出て
何やら他の警官に合図を出した。
何人もの警官が庭を横切り、蔵に向かう様子が見えた。
橋の下を覗く者も居る、土間に密封性のある袋を持って行く警官も居る。
静かだった屋敷が騒がしくなる。
それに伴い、居間の中の面々も体を動かしたり、深呼吸をしたり
様々な音を立て始める。
少し伸びをした後、将棋盤の前に座っていた野々村が
駒を鳴らしながらハリの在る、よく通る声を出した。
「さて、話はここから――だ。」
【続く】