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六月七日の日中は快晴だったが、天気はすぐに崩れる。八日は、雨交じりの強風が吹く荒れ模様となった。
終日マンションにこもって原稿書きと読書で過ごした私は、ありあわせのものをフル活用して名前のつけようがない料理を作る。夕飯を済ませると、翌日の準備だ。
夕方、福内智也と相沢由里子から「予定通りに」というメールを受け取っていた。午後四時に京都駅で相沢と落ち合い、JR嵯峨野線の快速で亀岡へ向かう。所要時間は二十分。福内は四時半に車で駅に迎えにきてくれるそうだ。
〈9日においでいただくことにして大正解でした。今日はどんより曇り、我が夢幻荘の周辺は無気味な雰囲気に包まれていますが、明日は晴れの予報です〉
福内から届いたメールにはそうあった。出掛けるのに悪天候はつらいが、無気味な雰囲気の夢幻荘(ホラー作家は本宅のことをそう呼んでいる)を訪れてみたかった気もする。
そして、明けて九日の木曜日。
予報に違わぬ晴天となり、溜まった洗濯物を干すチャンスを逃すことを残念に思いながら出発した。さほど遠方に行くわけではないが旅行気分だ。年々、旅好きになっているのを感じる。他に気分転換の仕方を知らないだけなのだが。
京都駅なら私は勝手が分かっているし、相沢も何度か亀岡行きの列車を利用しているので慣れている。私たちは、嵯峨野線が出る32番線のホームで待ち合わせをしていた。
京都駅のプラットホームは日本一長い(『のぞみ』が停車してもまだ百五十メートルほど余る)という豆知識は結構有名だが、ホームが三十二本もあるのかと驚く人が多いだろう。34番線まであると聞いても、びっくりしなくてよい。嵯峨野線というのは山陰本線の一部についた愛称で、山陰本線が発着するホームにはサンに掛けて30番台が振られているだけ。15から29番線は存在しない。
四時間前に32番線に着くと、相沢由里子はもうホームに立っていた。黒いパンツスーツに、襟の大きな淡い水色のブラウス。数珠のようなネックレスが胸元を飾っている。ニコニコしていて、今日も元気そうだ。
「お待たせしました」
「いいえ、私も来たところです」
そんなやりとりをしてから最後尾の車両に乗り込むと、彼女はクロスシートの座席をキャリーバッグと紙袋で確保していた。袋の中身は東京の和菓子らしく、私が用意していた手土産と被ったかもしれない。
「晴れて、よかったですね」
「はい。東京もずっと雨だったので心配していました。葛城先生の日頃の行ないがいいおかげで助かりました」
「その朝礼でお馴染みの校長先生の言い回しの最古の使用例はいつなんでしょう? もし判明しているんやったら知りたい」
「調べておきます」
などと言っているうちに、列車が動き出した。嵯峨野線に乗る機会は滅多にないので、このまま日本海側まで連れて行ってもらいたい気分だ。二十分で下車しなくてはならないのが惜しい。電車はすぐに北へと線路を変え、京都鉄道博物館の敷地を高架橋で斜めに横切る。
「今さら言うのも変ですけど、この前の対談でお会いしたばかりの福内さんのお宅に泊まりがけでお邪魔するのは無遠慮やったかな」
そう言うと、編集者は「いえ」と首を振った。
「福内先生からお誘いになったんですから、無遠慮なんてとんでもない。葛城先生は、福内先生に懐かれたんですよ」
「懐かれた? 私、あまり可愛げのある人間ではないと思うんですけど。ーー先生先生って連呼するのは面倒でしょうから、私のことは葛城さんと呼んでください。片岡さんみたいに。福内さんのことは『先生』だけですむでしょ」
「二文字削れますね」
いかにも編集者らしい発想だ。そうそう、 セリフの名前が出てくるたびに二文字だからかなり削れる。彼女は、早速私の提案を採用して言った。
「先生にお目にかかる前に、葛城さんへご相談したいことがあります」
「なんですか? あまり込み入った話をする時間はありませんよ」
「込み入ってるんですよ」
眉尻を下げて、困った表情を作る。電車は、最初の停車駅である二条に着いていた。
「ということで、てきぱきとお話しします。二つあって、第一に、先生はミステリーを書こうとなさっています。本格ものではなくどんでん返しの利いたサスペンスものらしいんですけど、ミステリーの書き方について葛城さんにアドバイスをお求めになるかもしれません。それについては、よろしくお願いいたします」
「私を夢幻荘に招いてくれたのは、それが目的だったんですか? そうやとしたら荷が重い。私が知っている程度のことは、福内さんは聞くまでもないでしょう」
照れ笑いをしてしまったが、相沢は敵のサーブを待つバレーボール選手に負けないほど真剣な表情だ。
「そんなことはありません。一つだけとっておきのアイディアがあるそうなので、私も楽しみにしているんです。傑作に仕上げるようお力添えを」
とりあえず承諾した。私に答えられる範囲であればいいのだが。
「それにしても、福内さんの執筆意欲はますます旺盛なんですね。『ナイトメア』が大ヒットして絶好調な時期に、ミステリーに手を広げるとは」
彼の大ファンでもある編集者はこのコメントに喜ばず、浮かない顔になる。
「福内さんがミステリーを手掛けるのは楽しみの反面、出版社としては痛し痒しなんですか? そんなものを書くよりも、『ナイトメア』シリーズを書いてもらいたいのが本音だというのも分かります」
いくら福内が人気作家でたくさんの固定読者を確保していても、何を書いても売れるわけではない。あるシリーズに夢中になったファンが、同じ作家のそれ以外の作品に見向きもしないことはよくある。
「いいえ。私は先生のミステリーを読みたいですし、会社としてもシリーズ以外の新しい作品を歓迎しています。それをきっかけに、先生が新境地を開いてくださるのなら嬉しいばかりです。でも、そうじゃないことが問題で……」
明かしてくれたのは、思ってもみないことだった。
「作家を引退する? 売れに売れているこのタイミングで信じられません。健康上の理由かな。事故に遭った後遺症はないとおっしゃっていましたけど、実は具合が良くないのかな」
にわかには、それぐらいしか考えられない。
「同じことを私も思いました。でも、違うんだそうです。もう小説を書く意欲が湧かない、とおっしゃっているので戸惑っています」
戸惑う前に、愕然としただろう。およそあり得ない事態だと反射的に思ったが、あり得るか。
「ずっと頑張ってきて、書くのに疲れたんやないですか。いったん仕事から離れたいだけで、休養したらバリバリ働いてくれるのでは?」
電車は再び西に進路を取り、丸太町に沿って走り出していた。京都の市街地では、道路だけでなく鉄路も基盤の目に従って敷かれている。
「それならしばらく骨休めをしていただいても構わないんですけど、疲労でもないようです。『書くべきことは全て書き尽くして、もう何も残っていない。今頭の中にあるミステリーのアイディアを形にしたら打ち止めだ。小説家という稼業に未練はない』と」
「そこまで言いますか」
書くべきことは全て書いたと思える境地が作家にはあるとして、福内智也のキャリアはまだそんなに長くない。作品数は『ナイトメア』シリーズを含めて十作だ。足を洗うには早すぎだろう。
相沢が私に持ちかけた相談というのは、福内と作家同士で語っているうちに引退の話が出たら翻意を促してほしい、ということだった。当人と親しくもない私にとって、これまた重い荷物である。
「私を相手に立ち入った話はなさらないでしょうけど、何かの弾みで話題がそっちに転がったら事情を伺ってみます。もっと構って欲しくて引退をちらつかせているだけやったら、相沢さんにひと安心していただけるかな」
「安心しながら反省すべきかもしれません。私どものサポートが足りないようでしたら、誠意を持って対応します」
「相沢さんや白釉社のサポートに不満はないんやないですか。もし、欠けているものがあるとしたら……」
「何でしょう?」と身を乗り出す。
「悪夢の提供ですよ。『新作で使えるナイスな悪夢を持ってこい』なのかもしれません」
編集者は破顔した。
「だったら私、頑張りますよ。渋谷の交差点に立ってアンケートを取るし、夢幻荘の悪夢の部屋に何日も泊まり込んで、うんと怖い夢を見ます」
「捨て身の貢献ですね。連泊して悪夢にうなされっぱなしは大変ですから、片岡さんにも手伝わせてください」
「それ名案です。葛城さんと片岡さんは本当に仲がいいんですね」
「そう映っていますか? ええ、気のおけない関係ですよ。彼もそう思ってくれている、と思いたいですね。ケアレス・ミスが多い私みたいな作家にとっては、校正が丁寧なのも助かります」
「校正でしたら葛城さんはお得意なのでは? 作家になる前は、印刷会社にお勤めだったと伺っています」
福内の対談相手になったので、私についてリサーチしてくれていたのだろう。
「よくご存知ですね。営業をしていたんですけれど、その当時からしょっちゅうポカをやらかす駄目社員でした。最初の本が出てすぐに辞表を提出した時、上司は心底ほっとしていました」
「印刷会社に就職なさる前から、作家を志望していらしたんですか?」
「はい。高校時代にミステリーを書き始めて、それ以来作家になるのが夢でした。念願が叶ってデビューできたので、死ぬまで書き続けたいと思っています。努力で才能のなさを補っている人間にとって、茨の道でしょうけど」
「歳を取っても引退なんてとんでもない? 大ベストセラーを連発して、一生遊んで暮らせるだけのお金が入っても書く?」
「はい。ただ、体力や気力が無くなってきたらリタイアするしかないかな。福内さんの話に戻ってしまいますが」
「先生の本音は、別のところにあるのかもしれません」
「と言うと?」
「純文学に戻りたいのかな、と」
福内智也の経歴について詳らかには承知していないが、純文学の権威ある新人賞を受賞して二十代前半でデビューしたことぐらい知っている。その後二冊の長編と一冊の短編集を出したが高い評価は得られず、三十代に入るまで厳しい作家生活が続いたことも。
一大転機となったのは、七年前に発表した『ナイトメアーー悪夢の黙示録』である。ホラー小説にアクションをたっぷりと盛り、娯楽に徹したスケールの大きなこの作品は、福内が白釉社に持ち込んだものだという。発表直前から話題になって瞬く間に版を重ねたから、版元がシリーズ化を熱望したのは言うまでもない。続編も半年で三十万部を超すヒットとなって、福内は一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たした。
「福内さんは、『ナイトメア』が売れたことを内心面白く思ってないんですか?」
「そうだとは思いません。全力投球してきたシリーズですから、大切に思っていらっしゃるはずです。でも、これが認められるなら二十代の時に書いたものもきちんと評価してくれるよ、という気持ちがあっても不思議ではありません。文名が高まったところで、かつて志した純文学に再チャレンジしたい。引退を口になさる裏には、そんなご希望があるのかなと推察しているだけです」
ありそうなことだ。
「なるほど。経済的にも充分すぎるほど余裕ができたでしょうから、純文学の再チャレンジは危険な賭けでもありませんね。希望通りになるかどうか難しいところですが」
『ナイトメア』シリーズが臆面もなく純粋なエンターテイメント作品だから、たとえ出来が良くても純文学に回帰した作品を福内ファンの多くは受け入れないだろう。いったん娯楽路線に転んだ作者の出戻りに対して、文芸評論家が冷ややかな眼差しを向ける(あるいは毅然と黙殺する)ことも予想される。
「相沢さんの推察が当たっていたら、白釉社にとって歓迎できない事態ですね」
「人気シリーズをどんどん書いていただきたいのは山々ですが、先生のご意思も尊重したいと思います。うちも文芸誌を持っていますからお力になれなくもありません。純文学とエンターテイメントの二足の草鞋もアリです」
『ナイトメア』で億単位の儲けを叩き出してくれている作家だから、多少の無理を聞いても罰は当たるまい。だが彼の人格にも作品にも傾倒する彼女が抱いているのは、もっと純粋な気持ちらしい。
「そのへんも探りを入れてみましょう。福内さんは本音を言い出しかねているのかもしれません。格が違っても作家同士なら、ぽろっと漏らしてくれないとも限りません」
「お願いします」と頭を下げられた。
話しているうちに太秦駅、嵯峨嵐山駅と過ぎ、電車は滴るような緑の中に突っ込んでいった。昔は保津川の渓流に沿って走っていたが、今はいくつものトンネルを潜りながら山の向こうを目指す。川を見下ろす旧線は、観光用のトロッコ列車のものとなっていた。車窓が暗くなったり明るくなったりを繰り返し、長めのトンネルを抜けると視界が開ける。もう亀岡盆地だ。
「亀岡は、太古の昔は湖だったそうですね。先生から教わりました」
降りる支度を始めながら、相沢が言う。亀岡に関する私の知識といえば、明智光秀が築いた城の跡があることと、宗教法人・大本の所縁の地であることぐらいだ。
「へえ、この大きなお盆に水が溜まっていたんですか。山の一角が崩れて保津川ができたので、水が抜けた?」
「はい。山は自然に崩れたんじゃなくて、大国主命が切り拓いたとも伝わっているそうです」
今は京都市内への通勤圏で、大阪市内に通う人もいる。
程なく電車は、機内のゆったりとした亀岡駅のホームに滑り込む。
階段を上って跨線《こせん橋上の改札口に向かうと、福内智也が待ってくれていた。象牙色のバケットハットを被り、淡いペイズリー柄が入った紺色のジャケット。白っぽいパンツといういでたちは、写真撮影があった対談の時よりおしゃれだ。
私たちを見つけると、ホラー作家は軽く帽子を持ち上げて言った。
「お待ちしていましたよ。亀岡にようこそ」