南口のロータリーに、BMWのプレミアムワゴンが停まっていた。相沢由里子を助手席。私を後部座席に座らせてから、福内は車を出す。十五分ほど走るそうだ。
大型ショッピングセンターの横を過ぎ、右に左にと曲がりながら南へ向かっているらしい。方向が違うではないかと思ったら、彼のサービスだった。緑に包まれた小さな丘を、私に見せたかったのだ。
「ほら、葛城さん。明智光秀が築いた短波亀山城址ですよ。備中で毛利攻めをしている豊臣秀吉の援軍を命じられた光秀は、この城を出てから途中で方向を転じ、本能寺に向かった。明治初頭の廃城令で天守が壊された後、荒れ果てたまま売りに出された。それを大本の教祖の一人出口王仁三郎が買い取って、石垣などを修復。教団の聖地にしています」
そんなガイドにつられて、私は車窓を覗き込む。
「出口王仁三郎は亀岡の出身でしたね?」
「そう。戦時中は国家神道を振りかざす政府に弾圧されて、ここにあった神殿が爆破されたりしています」
「そのあたりのことは詳しく知りませんが、『邪宗門』で読みました」
「葛城さんは高橋和巳がお好きなんですか?」
純文学にも明るいと誤解されないようにしなくてはいけない。
「いいえ。モチーフに惹かれて読んだだけで、他の作品は未読です。『邪宗門』はたいそう読み応えがありました」
「どのあたりが?」と聞かれて焦る。
「延々と繰り広げられるディスカッションですね。内容はよく覚えていませんけど」
「日本では稀有な作品ですよ。高橋は大阪市の生まれでしょう。私が思うに、あのディスカッションは理屈っぽい大阪人の一面がよく表れている」
「理屈っぽい大阪人の一面、ですか」
「東京は形式ばっていて堅苦しく、大阪はおおらかでのびのびしているという巷説もありますが、そうとも言い切れない。昨今の大阪については、よく承知していないまましゃべりますけどね。昔から大阪の人は理屈が好きで、芸能や芸事にもそれが反映されている。歌舞伎にしても、江戸でははったりの利いた荒事が大受けしたのに対して、大阪は派手さよりリアリティの高い世話物を好んだ。必然性や理由づけにうるさいんです。商都だったせいなのか、楽しく弾ける前に楽しむための担保を求めるかのごとく『なんでそうなる? なんで?』。ーーこれは東京と大阪の比較というより、薩摩や長州に牛耳られる前の古きよき江戸と浪速の比較かな」
相沢が感心したように頷いていた。
「うーん、面白い話ですね」
私はというと、語られる文化論そのものについては特に感想がない。しかし、福内が対談の際と同じく能弁であることに安堵していた。無幻荘に滞在している間も絶え間なく話題を見つけてくれそうだから、こちらは気が楽だ。話好きがすぎる相手だと疲れることもあるが、何日も一緒にいるわけではない。
市街地をすぐに抜けて、湯の花温泉へと続く国道372号と途中で分かれた。車は、西北西に進路を取る。亀岡盆地は早くも尽きて、私たちは山へと入って行った。
「昨日の夜、うちの近くで落雷があってね」
彼が隣の編集者に話しかける。
「えっ、大丈夫だったんですか?」と相沢がすかさず聞く。
「近くといっても、家のすぐそばに落ちたわけじゃない。二百メートルほど南西だ。倒れた杉の木が道を塞いでしまった。市の道路管理課が倒木を撤去するまで、うちは袋小路に閉じ込められていたんだよ」
ここで福内は、無幻荘の立地について私に簡単な説明をしてくれる。今走っている府道から分かれた一車線の市道が、行き止まりにぶつかる手前にあるのだそうだ。今日相沢が泊まるオーベルジュ〈トロイメライ〉は袋小路の奥まったところに建っていて、森の一軒家という風情だとか。
「それはご不便でしたね」
私が言うと、左手をステアリングから離して小さく振る。
「いやいや。夜が更けてからのことだからずっと家にいたし、午前中の早くに復旧したみたいで駅まで迎えにくるのにはなんの支障もなかった」
昨夜は雨風が激しかったというのでもないが、十時半頃に十分間ほど非常に雨が強く降った。雷が一発お見舞いして去って行ったのだという。
「こんなふうに気持ちよく車を走らせていて、急に倒れた木が塞いでいたらびっくりしますね。事故が起きなくてよかった」
相沢が言う。うねうねと曲がりながら道は延び、前方から次々と緑が湧いてくるようだ。と左手から鹿が飛び出し、行く手を横切った。助手席で「あっ」と声が上がる。
「たまにこういうこともある。常に安全運転を心掛けているから、ご心配なく」
「先生の腕前は信頼しています」
時折民家があるけど、無人のものが多いようだ。流れ去る風景をまだ追っていたら、すかさず福内が言ってきた。
「亀岡でも人口減少が始まったようですが、減り幅は小さくてまだ九万人以上を保っています。それでも空き家問題と無縁ではありません。うちの近くでも何軒か放置されています」
「小野さんのお宅も、まだ……?」
声を落として彼女が尋ねる。彼は「うむ」と頷いていた。わざわざ聞いたところからすると、相沢は隣人の小野さんと面識があるのかもしれない。
わいわいと色々なことを話しているうちに、道路が二手に分かれるところまで来た。オーベルジュへの道であることを示す立て看板が右の端に立っていて、福内はステアリングを切りながら「もうすぐです」と言う。
左手に捨てられたような一軒家があり、さらに数十メートルほど行ったところでなぜか車はスピードを落とした。窓外に可愛い子鹿がいたからではない。
「右手に中ほどから折れた木があるでしょう。あれが落雷をくらって倒れたんです。もともと病気に罹っていたので、あんな派手に裂けたみたいですね」
周囲の杉から推して、五十メートル近い高さだったであろう。その上半分がバキリと折れて倒れる映像が、スローモーションで脳裏に浮かんだ。樹皮がめくられた大きな木片がいくつも路肩に散らばっているのは、撤去作業の名残りか。
「先生は、雷が怖くないんですか?」
「平気。相沢さんは雷鳴を聞いて血の気が引くのかな?」
「英語の電話ほどは恐れませんけど、嫌ですね。避雷針がある建物の中にいても、早く通り過ぎて欲しいと思います」
「今日は大丈夫だろう」
彼はアクセルを踏み、車は滑らかに元の速度へ戻った。大きなカーブを曲がり切った先の右手に廃屋。さらに進むと左手に家がまた一軒。人気がなかったが、こちらは廃屋なのか留守宅なのか判然としない。
「まず相沢さんを〈トロイメライ〉にお連れして、チェックインしてもらおう。それから三人で拙宅へ。ーーあれです」
指差された右手前方に目を向けると、急な勾配の屋根を持つ山荘風の建物が見えてきた。玄関脇にゆったりとしたデッキがあり、二階にはバルコニーが迫り出している。大きな窓が並んでいるから、いたって採光が良さそうだ。奇抜なところもこれ見よがしに豪勢なところもないが、立派な家であることは間違いない。よく観察する間もなく、車はその前を風のごとく通過した。
この先に〈トロイメライ〉しかないのかと思ったら、赤いスレート屋根の家が一軒ある。主の好みの色なのか、真っ赤な軽自動車がカーポートにあり、垣根で囲われた庭で草むしりをしている女性が一人。車が通りかかっても顔を上げようとしないので、年恰好は分からなかった。
「今の人は絵描きさんです」
福内が言う。
「画家ではなくイラストレーター。こんなところに住んでいても、コンピューターがあればなんの不自由なく仕事ができるらしい。便利な時代です」
淡々とした口調だった。その女性イラストレーターに対して、彼はあまりいい感情を抱いていないように感じられる。親しくしているなら、彼のコメントはもっと具体的で詳しいものになりそうだ。向こうが隣人との交流を避けたがるタイプで、接触が乏しいだけかもしれないが。
道はゆるく右手にカーブして、曲がり切るとオーベルジュ〈トロイメライ〉が現れた。ホラー作家は森の一軒家と評していたが、想像していたよりも瀟洒だ。白い外壁が陽光を撥ね返しており、手前に向かって傾いた片流れの屋根に洒落たドーマー窓が四つ、誇らしげに突き出している。敷地を囲う金属製の素通しフェンスが低いため、雰囲気はとても開放的だ。玄関先に突き出した庇のアーチが愛らしい。その庇は一階に並んだ馬蹄形の窓とともに、楽しいハーモニーを奏でているようだ。
「私初めてここに来た時に、オルゴールみたいだなと思ったんです」
車から降りて、相沢が言う。
「全体が小さくて、可愛らしくて、あの屋根を開くと綺麗なメロディが流れてきそう」
オルゴールか。言われてみると、そのように見える。綺麗ではあるが、さっきの福内の話によるとそう新しくはないらしい。サインボードにsince 2003とあるから、外壁を塗り直すなどの改装を施して間もないのだろう。
「こんな場所なのに、しっかりお客を掴んで繁盛しているんですよ。その理由は料理を食べてみれば分かります」
彼は、私の期待を煽った。彼女がチェックインしてから無幻荘に行き、七時にここへ戻ってきてディナーというのが本日の予定だ。編集者はそのまま宿泊し、私は夢幻荘でお世話になる。
「お客さんが着きましたよ」
磨りガラスの嵌まった扉を押し開けると、福内は中に快活な声を投げる。棚の花瓶に薔薇の花を挿していた四十代後半ぐらいの女性が振り向き、エプロンで両手を拭きながら飛んでくる。
「お待ちしていました。お客様をお連れいただいて、先生いつもすみません。相沢さん、いらっしゃいませ。この前いらしたのは四月でしたかしら」
「はい、二ヶ月ぶりです。今日もご馳走を楽しみに来ました」
彼女が言い終わらないうちに、奥から深紅の蝶ネクタイをした男性が出てきた。こちらがオーナー・シェフの桃瀬幸治、女性はその妻の和世だった。夫婦揃って小柄で顔の輪郭がふっくらしており、一対のマスコット人形のようだ。
幸治の顔立ちはやや扁平で、細い目に薄い唇をしたいわゆる北方系。それに対して和世は目鼻立ちがはっきりとした南方系で、南国の民族衣装が似合いそうだ。夫婦の遠いご先祖は、何万キロも隔ったところで生きていたのだろう。
福内が「ご活躍なさっている推理作家の葛城希空さん」と私を紹介した時、桃瀬夫婦はただ微笑んで頭を下げた。活躍中にしては聞いたことのない名前だな、と思ったはずだ。早くハリウッドに進出しなければならない。
相沢由里子がチェックインを済ませると、幸治が彼女のキャリーバッグを二階の部屋へ運ぶ。エレベーターが備わっていないので、彼がポーターの役目も務めるようだ。
「部屋で一服してから下りてきたらいいからね」
幸治に続いて階上に向かう相沢へ、福内は一声かけた。
「先生方、お茶でも召し上がってお待ちになりますか?」
和世が勧めてくれたが、彼は丁寧に断わる。
「ここのアフタヌーンティーは最高だけど、今日は自宅で用意していますから。美味しいケーキは、ディナーの後の楽しみに取っておきましょう」
「そうですか。ーー木が倒れたところをご覧になりましたか?」
「ええ。きれいに片づけてありましたね。しかし、あんな大きな木が倒れてきて直撃されたらひとたまりもない」
二人が話している傍らで、私は館内の様子を見回した。内装は絨毯からカーテンまで薄いグリーンを基調としていて落ち着きがあり、壁の漆喰の風合いも良い具合である。オープンから十四年と言う歳月を経て、何もかもが上手くこなれてきたようだ。エントランスやレストランの奥に掛かった絵は、いずれも幻想的な作品ばかり。このオーベルジュのテーマが夢想であることをアピールしているのだろう。
幸治が下りてきて、今夜の料理について福内にいくつか確認する。私は、苦手な素材を聞かれて「ありません」と答えた。どんなものが出るかは秘密だという。
「真央ちゃんはいるんですか?」
福内が夫婦のどちらにともなく尋ねる。
「細々としたものの買い出しに行っています。もう帰る頃です」
答えたのは和世だ。真央というのは幸治の兄の娘で、〈トロイメライ〉を手伝っているということを聞いていて察せられた。
「ああ、そうですか。ーー今夜のお客さんは、私たち以外にも?」
「おひと方だけいらっしゃいます。昨日から湯本さんがお泊まりなんです」
「湯本さんが昨日から泊まっていた? それは知りませんでした」
常連客で、福内とも顔馴染みらしい。和世は説明を補足する。
「急な用事でご予定が狂って、昨日の夜遅くにお着きになったんです。到着なさったのは十時半過ぎ」
「オーベルジュなのに食事はせず、ホテルとして利用したんだ」
「はい。おいでになる途中。あの落雷に遭遇したと伺って、びっくりしました」
「えっ、そうなんですか?」
先ほど倒木の話題を出した際に言おうとして、タイミングが合わずに話しそびれたらしい。
「昨日の夜はそこまでお伝えしていませんでしたね。湯本さんがあそこを通られた直後に落雷して、木が倒れる音が後ろでしたそうです。『十秒ぐらいの差で命拾いした』とおっしゃっていました」
「危機一髪だ。それは一生、話のネタになりますね」
相沢が下りてくる。踊り場の絵の前を通り過ぎ、もう三段で階段が尽きるというところでアクシデントが起きた。彼女は「あっ」と細い声を発したかと思えば、残りの段を踏み外したのだ。ダダダという音を立てて落ち、勢いよく尻もちをつく。私たちは慌てて駆け寄った。
「大丈夫!?」
叫ぶ福内。彼女は胸のあたりに手を当て、弱々しく「はい」と応えたものの立ち上がれない。
「小野さんと同じ……。場所も……」
和世はひどく狼狽して、幸治の二の腕をつかんでいた。夫も棒立ちになっていて、強いショックを受けているようだ。
「驚かせてすみません」
相沢が言う。
「お尻を打っただけで、足を挫いたりもしていません」
「眩暈でもしたんですか?」
私が聞く。そのように見えた。
「ただの立ちくらみです。低血圧なので、たまにこんなことが……。ふらっときた瞬間手すりに手を伸ばしたんですけど、掴み損ねました。少しだけこのままでいさせてください」
その言葉に、和世は安堵のため息をつく。不自然なほど大きな吐息だった。
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