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男達の、笑い声が、屋敷中に響き渡っていた。
「ちぇっ、しけた屋敷だな」
その賑やかな様子の隙を突くように、春香に付き添っていた童子が、一人悪態をつく。
人気《ひとけ》のない整理された部屋の一室で、飾り棚の中身を探る童子に、おいっ、と、声がかかった。
慌てて、童子は、つかんでいた香枦を懐にしまうと、何食わぬ顔で、「あー、厠の帰りに、つい。物珍しくって、部屋を覗いてしまいました。やっぱり、街一番の商人のお屋敷は違いますね!」
「阿呆、そんな、言い訳、だれが信用するか」
「あっ、黄良!遅かったじゃないか!」
障子越しに差し込んでくる、朧気《おぼろげ》な、月明かりが照らすのは、仲間の黄良の姿だった。
「おまえなあ、はやく、金持ちの屋敷の造りを覚えろ。ここは、客間、それも、主の妻、夫人用の客間だ。飾り物はあってもな、金目の物は、ねぇーんだよ」
「えー、じゃあ、これは?」
童子は、懐から香枦を取り出すと黄良しに差し出した。
「ふうーん、まあ、悪くねぇー。頂いときな」
黄良が言うと同時に、か細く、それでいて、軽やかな琴の音《ね》が流れてきた。
「よし、宴もたけなわだ。春香の演奏が始まった。お宝を頂いて帰るぞ」
黄良は、スタスタと、続き間を抜けて先へと向かった。
「あっ、待って!」
童子は、慌てて追った。
「……あー、もう少しで、春香の演奏は、終わるぞ。童子、お前は、あっちの部屋だ」
こくんと、頷き、童子は背伸びしながら、箪笥の引き出しを開けていく。
流れてくる琴の音に、あー、間違いやがって、と、黄良は、ぼやくと、部屋の隅にある文机に置かれる塗り箱の蓋を取った。
中には、手紙の束がある。黄良は、それを慎重にとりだして、下に隠されている為替手形を見つけ出した。
「まあ、自分のへそくりは、こんなとこぐらいに、かくすもんなのさ」
と、誰に向かって語るわけでもなく、手形を取り出し、手紙の束をもどす。
「童子。行くぞ」
懐の奥深くに手形を、仕舞い込みながら、黄良は春香が呼ばれて琴を披露している母屋へ向かった。
廊下へ出て暫くすると、下働きの女と鉢合わせる。
あっと、小さな声をあげる女に、黄良は、
「あー、助かった。お姉さんと会えたのも、運命だ、ってのは、ちょっと大袈裟かー」
と、おどけてみせた。
下女は、突然現れた、風体が皆と異なる男にためらった。
だが、人当たりのよさと、よく見れば、整った顔立ちに緑色の瞳と、何か心を捕まれるものがある。
「あ、あなた、は?」
「驚かして、すみません。私どもは、こちらの旦那様に呼ばれた春香様の供の者。ですがね、うちの見習い童子が、もよおしまして、厠をお借りしたのは良いのですが、こんなに広いお屋敷だ。すっかり迷ってしまいまして、宴が、開かれている、母屋へは、どういけばよろしいのでしょう」
眉尻を下げ、困り顔の黄良に、下女は、くすくす笑いながら、
「そうね、あそこの、渡り廊下を行くのが早いわ。このまま進んでも行けるんだけど、下働きが、右往左往して、宴の料理や酒を運んでいるから……」
「あー、なるほど、助かった。どうも、有り難うごさいます。で、お名前を聞いても?」
急に、甘い声色を使う黄良を童子が、呆れ顔で小突いた。
「まったく、人の恋路を、じゃまするなって」
黄良の言葉に、下女は、頬を赤らめながら、「名前?秘密よ」と、はにかみながら答えた。
「あー、惨敗か。でも、また、どこかで。じゃあ、これで」
黄良は、教えられた渡り廊下へ向かう。童子も、後を追う。
立ち去る二人を、下女は、不審に思うこともなく、自分の持ち場へ戻っていった。