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テラーノベル(Teller Novel)
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その子供は泥濘族と同じ格好をしているが、同じ部族の子供でないことは明らかだった。泥濘族よりも明るい肌はそれ故にあまり星釉が映えず、対して夜空のような漆黒の髪は星々のごとき髪飾りを際立たせている。


少女は寂しげな眼差しを湛えつつ、ぼろぼろの人形を生き生きと動かしながら、口笛を吹いている。それは口笛とは思えないほどの情感に溢れ、永久の春を祝うような宴の楽の音と違い、去り行く人への贈り物のようなどこか切なくて、もの悲しい音色だ。あまりにも複雑でありながら耳心地の良い深みのある響きだ。とてもいたいけな少女が口笛で奏でられるような音とは思えない。


ユカリは呆けたように少女のそばで聞き惚れてしまい、しばらく身動きがとれなかった。


その口笛を特等席で聞いている人形もまた少女のような姿だが、この部族の服とはまるで違う。人形はどこかの王女様が身に纏うような豊かな襞の膨らんだスカートで飾られている。色褪せ、ところどころほつれてはいるが、施された刺繍は子供の人形としてはとても贅沢な出来だ。しかしユカリにとっては奇妙なことに、その人形の口は鳥のような黄色の嘴だった。


ユカリはようやく口笛の音から解放され、少女に話しかけた。「ねえ、こんばんは。その子、可愛いね。良ければ名前を聞いてもいい?」


少女は口笛をやめて振り向くが、ユカリを見上げて表情も手足も体も固まってしまう。

ユカリは腰を屈めて、少女に視線を合わせ、微笑みかける。年相応であれば十歳くらいに見える。少女は口笛をやめた唇をむにむにと動かすが、言葉は出てこない。


幸いユーアは何も喋れないよ。そういう子なの」とさっき一緒に遊んだ泥濘族の少女が声をかけた。

「そうなんだね。ユーアと一緒に遊ばないの?」と尋ねるのは少しお節介だったかもしれないとユカリは思う。

「たまにね」と少女は言った。「でもユーアは何して遊ぶ時も人形を離さないから、何も上手くいかないんだよ。人形も汚れちゃうし。だから最近は人形遊びくらいしか一緒に遊ばない。それに喋れないしね」


少女の言葉に悪意などないのだろうが、ユーアは居心地の悪そうな申し訳なさそうな表情になっている。


「そっか」とユカリは呟いてユーアに向き直る。


目が合ったユーアは恥ずかしそうに人形を抱きしめて俯いていた。


ユカリは微笑みを浮かべる。「ユーアの口笛はとっても美しかったよ。私もこういうことができるよ」


そう言ってユカリはひらひらと両手を振ると、得意げに指を組み合わせて壺のような形を作る。

少女ユーアは目線だけその何の変哲もないユカリの手を見下ろして、不思議そうにユカリの顔とユカリの手を交互に見る。だから何? と言いたい気持ちがユカリに伝わってくる。


「グリュエー。『羊の川』でお願い」とユカリは呟いた。

「任せて」


グリュエーは小さく細く、それでいて強くユカリの手の壺の中に吹き込み、巧みに指の間を行き来する。潜んでいた儚げな音たちは風に追い回されて楽を奏でた。ユーアの口笛ほどの技巧はないが、温かみのある『羊の川』が奏でられる。


「わあ、すごーい」と泥濘族の少女が手を叩いて喜び、他の子供たちを呼びに行った。

「得意そうな顔してるけど、奏でてるのはグリュエー」と言葉でちくりと刺される。

「まあまあ。あとで遊んであげるから」とユカリは風に囁いた。


ユーアは目を丸くしてユカリの手を見つめている。色々な角度から観察して、ついにはユカリの手を掴んで開かせる。手の中にはもちろん何もないが、音は止んでしまう。グリュエーが驚かせようとユーアの顔に吹き付けると、驚いた表情の後、少しだけ微笑みを見せてくれた。


「もう一度ユーアがさっき吹いていた曲を聞かせて?」


ユカリがそう言うと、ユーアは少しばかりすました顔で居住まいを正し、しかし人形はしっかりと抱きしめてさっき吹いていたもの悲し気な音楽を吹いてみせた。


それに合わせてユカリ、もといグリュエーの手笛が陽気な調べを重ね奏でる。するとユーアの口笛もいくばくか明るくなり、体をゆすって音楽に乗り始めた。気が付くと他の子供たちも集まって、唄い、踊り、一人はどこかから小さな太鼓を持ってきて囃し立てた。小さな音楽団の演奏に他の子供たちも加わる。ついには広場の宴に劣らない盛り上がりを見せた。

宴の楽団がこちらへ、と手招きするのにユカリは気づき、ユーアの手を引いて子供の楽団と共に寂しい荒野の夜を賑やかした。その日ばかりは荒野に巣食う魔の者も幸せな楽の音に面食らい、耳を塞いでねぐらへと戻っていった。




しばらくして、疲れ切って寝てしまった人々――その中にはパディアもいる――を除いて、人々は温めた山羊の乳と商人に振舞われた甘い蜂蜜菓子を食べていた。ユカリもまた蜂蜜菓子を頬張りながら、人形を手放さずユカリの膝の上で眠るユーアの絹糸のような黒髪を手櫛で梳いていた。


ユカリはまるで姉になった気分になった。妹がいたならという想像を今までに何度となくしてきた。姉や兄に一目会うことすら無かったので、自分が末っ子であるという自覚すら乏しかったのだが。

もしもユーアが妹だったならという想像は久々に小さな羽根を上下して、心を浮き立たせる。何て呼んでもらおうか、何を教えようかと浮足立った気持ちが蝶を見つけた仔馬のように空想の野原を馳せた。


ユカリは膝の上の小さな妹を見つめる。その安らぎに満ちた寝顔に愛しさを感じる。ユカリの髪色に似た髪から手を離し、ユーアの長い睫毛に乗った砂埃を払う。


人々は夜に縁どられた温かな安らぎの中で思い思いに過ごしている。何やらひそひそと秘密めいた商談をする商人。傷つき曇った兜の手入れをする傭兵。何人かは小さな偶像を懐から取り出して、最後の夜ではないことを願う祈りを小さな神々に捧げている。天を讃えた古い歌を祖に持つ祈りの言葉は、寄せては返す波のように、炉辺の周りを行き来する。小さな神々はその様子を一瞥すると、信徒の献身に微笑みで報いた。焚火は弱まりつつあるが、祝福された篝火はなおも赫々と燃え盛っている。


ユカリがそれに気づいたのは、その場で目覚めている者の半分ほどがそれに気づいた後だった。見ると荒野の向こう丘の向こうから集団が歩いてきている。ざっと見た限り、五十人くらいが星空を背景に丘の上に並んでいる。既に日が落ちてから多くの時間が過ぎ去った。隊商だとすれば随分無計画な道行きだ。


屍使いじゃないか? と誰かが囁くように言った。隊商の誰かだった。商人たちが恐れおののく。傭兵たちも抜刀しないまでも、立ち上がり、身構えている。隊商の馬までもが異様な雰囲気に怯えていなないている。


「屍使い? 屍使いって何ですか? 言葉だけで物騒な感じですね」とユカリも不穏な言葉に身をすくませる。

そばにいた商人が答える。「魔法で死体を操る忌まわしい連中だよ。亡者を労働力として使役する不吉な連中さ」


その口調の刺々しさから、屍使いが随分と忌み嫌われているのだろうことはユカリにも分かった。


「問題は」と別の商人が言葉を繋げる。「奴らの大半が盗賊をやっていることだ。亡者を使って真っ当な商売をしている奴なんてほとんどいない。亡者を使っている時点で真っ当なわけがないが」


皆が恐れ怯える理由も分かった。


「寄る辺なき死者や無名の戦士を手厚く葬ってくれる人々でもある」といつの間にかそばにいたビゼが言った。「屍使いだからといって、それだけで邪悪な存在と見なしてはいけないよ」


とは言うが盗賊であるなら話は別だ、とユカリは心の中で反論する。こちらの命にもかかわってくるのだから。


隊商の隊長と泥濘族の族長の話し合いを聞くに、泥濘族の集落に屍使いの出入りなどかつて一度もないという。隊長はあの屍使いたちもまた隊商である可能性を考えたようだが、どうやらその可能性も低いらしい。荷馬車らしきものが見えないし、そもそも丘の上であのようにじっとする理由が思い当たらない。この集落を威圧することくらいしか出来ない。


どうしたものか、と皆が悩んでいると深い闇に佇む集団の中から青毛の馬が一頭やってくる。


すかさず傭兵たちが剣を抜き、集落の入り口のあたりを固める。使者であれば、そこには和平と同じくらい戦闘の可能性が内包されている。


蹄の音を高らかに、使者は無手を示し、傭兵に囲まれながら村へと入ってくる。その騒ぎでユーアが目を覚ます。物々しい状況に怯え、ユカリの膝から離れて、その背中に身を隠す。


青毛馬の乗手は女だった。夏の影を織り込んだような漆黒の盛装ドレスを優雅に身にまとい、星々も色褪せる煌びやかな宝石を身につけている。とても旅装束とは思えないし、とても死者とは思えない。その振る舞いは神官のように楚々で、身のこなしは貴族のように上品だった。


しかしその馬は間違いなく屍だった。一部皮が剥がれ、今まさに戦場で蘇ったかのような痛々しい傷に蛆が沸いている。そして女の方も顔には厚く化粧をしているが、晒している手や胸元は青白く、香を振っているようだが、死臭は隠しきれていなかった。


傭兵たちは全員が剣を抜いたまま、その場にいたみんなで使者の女が喋るのを待つ。女は周囲を見渡すと一礼する。


「嗚呼。かくも深き夜の底にて、偉大なる軍勢を率いし、真正かつ情け深き我が君黄金の翼バダロット様に幸いあれ。其は黄昏の残光を踏みつける孤高の獅子。星をも見下ろす夜の玉座で反逆者の秘密を胸中に抱く預言者。死出の旅に輝く北極星。斯様の如き我が君と、厳しい荒れ野に気高く息づく泥濘族との巡り合いに幸いあれ。

《死》を駆り立てるかの獣の幾千の手を逃れたる業と、業を授けたもうた美しき御指持つ神、糸車の皇子シシュミスに栄あれ。

我ら、貴きシシュミスの加護の元、幾千の剣を、幾万の戦場にて振るいし兵ゆえに、栄光を勝ち取ることは容易かれど、かの君の温情は遍くうからと同様に泥濘族にも給われる。至上の魔法記されたる魔導書を我が君に献上するよう勧むがゆえに。

また我が君の温情は我ら兵どもにも同様に与えられ、古くより戦士なればおしなべて切望する熱き栄誉を勝ち取る機会をかの君より賜ったがゆえに、魔導書を我が君に献上せぬよう勧む」


朗々と歌い上げた使者はそのまま馬上で返事を待っている。


バダロットという名が商人も傭兵も泥濘族にも響き渡っていた。ユカリもまた聞き覚えがあった。義母ジニの語ったお話の中に出てきた気がする。


それは悪名高き盗賊の名だった。ミーチオンにとどまらず、アルダニ、華やかな砂原サンヴィア、シグニカを股にかけて各地を荒らしまわった匪賊の頭領の名だ。奪い取るのは金や食料、女ばかりではない。戦場を駆けた英雄や怪物退治の勇士たちの鍛え抜かれた肉体が奪われ、屍の兵としてバダロットの下に英名を汚された。攻め落とした街を一時の根城にし、次の街を攻め落とす。古いねぐらは捨てて去り、いずれ来る終末の時がごとく諸方の市が荒廃した。またその狡猾さで都市と都市の同盟の隙を突いた立ち回りにより、都市の共闘を牽制し、都市同盟は虫に食われた林檎のように荒らされた。魔導書使いではないか、という噂もまことしやかに語られた。


それが数十年前の話で、かつては数万を率いた軍勢も十数年前には数千へと落ち込み、今ではとんと噂も聞かなくなった。斯くも偉大な盗賊の王も永久の命を手に入れることは出来なかったのだろうと見なされていた。しかし行商人や傭兵にとっては、その名の力は今も健在で彼らの心の中に害虫のように巣くっている。


問題は魔導書だ、とユカリは考える。というよりは魔導書のおおよその在り処を知っていて、それでいてその正確な場所は知らない、そういう状況にある者がユカリの他にもいるということだ。バダロットの使者の言葉だけでは確信を持てないが、もしかしたら魔導書の気配を察知しているのかもしれない、とユカリは考えた。


ビゼも同じことを考えたようで、ユカリに意味ありげに目線を送る。だとしてもまだ動くべきではない、そういう意味の目線だ。パディアはいつの間にか起きてはいるが、状況をまだ理解できていないようだった。ただし愛用の杖を握りしめて、いつでも動いて誰かを叩き潰せる態勢を取っている。


使者の女性はただ静かに待っている。魔導書か死か、その答えを待っている。


泥濘族と隊商の間で議論が交わされている。泥濘族の戦士たちはバダロットの名を知っていても、戦いを恐れはしないようだ。隊商側はさっさとバダロットに魔導書を差し出せ、と泥濘族に要求している。しかし泥濘族は魔導書など知らない持っていないと答えていた。そもそも魔導書についてよく分かっていない様子だ。

次に商人たちは金での解決を図る。自分たちの身代金というわけだ。しかし泥濘族の分まで払うかどうかでまた意見が分かれる。

そもそもバダロットの使者は金など要求していないのに、不毛な議論を重ねてゆく。馬上の使者は彼らの会話に耳を貸さず、口を挟まず、ただ冷たい笑みを浮かべて虚空を見つめて待っている。


バダロットは魔導書を持っているのだろうか、とユカリは考える。いずれにせよ、今この場で対抗できるのは魔導書を持っている自分だけだ。


「はい。私、魔導書持ってます」と言ってユカリは挙手した。


集落は静寂に包まれ、篝火の爆ぜる音とグリュエーの緊張感のない笑い声だけが響いていた。長椅子に座るユカリにその場の全員の視線が注がれる。馬上の使者もまたユカリの方に首を向ける。


「では、わたくしに魔導書をお渡しくださいな」


先ほどの通告とはうって変わって親し気な語調だ。

ユカリは不思議そうに挑発にならない程度に首をかしげる。


「私が魔導書を捧げるのは貴女ではなくバダロット様です」

使者は淡々と答える。「使者は全権を委任されていてよ」

「私の全権は私にあります。私がどうするか、みんなを見逃してもらう代わりに私の魔導書を素直に渡すか、あるいはその力を振るうかは、私が決めます」


しばらくの沈黙が流れた。使者は感情の籠らない瞳でユカリをじっと見下ろしている。


「貴女、名前をお預かりしてもよろしいかしら?」

「ユカリと申します。貴女は?」

銀星の響きフェビタルテ。ではユカリさん。わたくしについてきてくださる?」


二人を囲む沈黙から最初に抜け出てきたのはパディアだった。


「ちょっと待ちなさい。ユカリ一人では行かせられない。私もついていくわ」


使者フェビタルテは馬上で丁寧に断る。


「それは、あまりお勧めできないわ。わたくしが我が君に求められたのは魔導書のみ。現状の所持者だと主張するユカリさんを連れて行くだけでも譲歩ですのよ。それとも貴女も魔導書をお持ちで?」

「いいえ。だけど……」というパディアの言葉をフェビタルテは打ち消すように答える。

「異常と見なされれば我らが勇猛にして果敢なる軍勢が丘を越えることになりましょう。平和的交渉がお望みなら言動行動は慎重になさってね」

「大丈夫だよ、パディアさん」とユカリはパディアの心配顔を見上げて安心させるように微笑む。


ユカリが長椅子から立ち上がると、ユーアがすがり付くように腕を掴む。ユカリはユーアの赤茶色の瞳を見つめて、夜空のごとき黒髪を梳くように頭を撫でる。


「良い子で待っててね。ユーア。すぐに戻ってくるよ」


ユカリは想像上の姉らしくそう言うと、ユーアの細く柔らかく煌めく指を引きはがして、屍の使者フェビタルテの後に続く。

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