言葉にできないほどの惨憺(さんたん)とは、きっとこういうことを指すのだろう。
この世界にはドラマの展開と同じ流れになるよう、特別な力でも働いているのか。そうとでも考えないと、この状況に納得ができそうにない。
確かにドラマで悲劇を経験した無風は、雨尊村の一件で自分の無力さを痛感し「すべての人を守れるぐらい強くなる」と心に誓って邁進するようになった。結果、ぐんと霊力が成長し様々な術が使えるようになったという展開を考えると、雨尊村の洪水は必要なイベントなのかもしれない。
しかし、だからと無風に辛い思いをさせていいのかといえば、そうではない。今回の出来事を人生経験の一つだと無視すれば、必ずや蒼翠の破滅に繋がる悔恨の芽になる。
だから絶対に回避しなければ。
「無風! 無風、どこだっ! くそっ、もう宝珠を取った後か」
尋常ではない風と雨が、すべてを物語っていた。一足遅かったことをくやみながら、蒼翠は雨で泥濘(ぬかる)んだ土と大量の木屑で埋め尽くされた道を進む。
羽織っていた上質な絹で織られた上衣は、見るも無惨に泥まみれだ。きっとこれはもう使い物にならないだろう。が、そんなことはどうでもいいと無風を呼び続ける。
「まずいな……河川と村の住居が近すぎる」
ドラマの記憶を辿りながら足を進めると、轟々と禍々しい濁流音が蒼翠の耳に届き始めた。
村の上流にある川は、かなり増水している。あそこが決壊し氾濫すれば村ごと濁流に呑み込まれ、多くの死者を生むどころか、生き残った者が暮らす場所もなくなってしまう。
「無風! いるなら返事をしろっ!」
喉の粘膜がひりつくほど声を張り上げて呼び続ける。そのまま四半刻ほど歩いていると、雨と川の音の合間から微かな音が聞こえきて蒼翠はハッと顔を上げた。
「――様――、蒼翠――様!」
「無風っ?」
この場で蒼翠の名を呼べるのは無風しかいない。確信した蒼翠が声に向かって駆けると、今にも崩れて川と一体化しそうな川縁に膝を突く無風の姿が見えた。
「無風! 大丈夫か! なんでお前、そんなとこに……――っ!」
こんな状況下で川縁に留まるなんて、と咎めようとした言葉はすぐに止まった。無風が必死に伸ばす腕の先に、下半身が川に落ちてしまった幼子の姿があったからだ。
「そのままその子の手を離すなよっ」
蒼翠は即座に無風の下へと駆け寄り、一緒に幼子の腕を掴む。しかし子どもならすぐに引き上げられるかと思いきや、濁流の勢いが強すぎてなかなかうまくいかない。
「腕力だけで引き上げるのは無理か……」
ならば、と蒼翠は下腹の丹田(たんでん)から霊力を引き出すイメージを頭の中で描き、強く念じる。と、掌の中心が徐々に温かくなり、全身に力が漲り始めた。
「よし、引き上げるぞ!」
術の発動とともに川の中の幼子の身体が宙に浮き上がり、陸へと移動する。
もうこれで大丈夫だろう。子の安全が確認できたところで、蒼翠は改めて無風に向き合った。
「無風、大丈夫か?」
「そ……蒼翠様……どうしてここへ……?」
「今はそんなこといい。とにかく祠の宝珠はどこだっ? まだ手元にあるのか?」
「宝珠は……蒼翠様の大切な仲間が封印されていた宝珠は割れてしまって……」
「大切な仲間? なんのことだ」
「半龍の人から教えてもらったんです。宝珠の中にかつての戦いで傷を負った仲間が封印されていると……」
そこまで聞いて、ようやく蒼翠の中に答えが浮かんだ。あの配下の半龍人は無風が屋敷に来た時から、ずっと「金丹(きんたん)すら持たない者が蒼翠様に目をかけられるなんて」と敵視していた。だからこそ屋敷の中では手を出さないよう監視していたし、近づかないように配慮していたのだが、どうやら蒼翠の知らない場所で無風に嘘を吹き込んでいたようだ。
「あれはアイツがお前を陥れるためについた嘘だ。俺は宝なんて求めていない」
真実を告げると、無風の顔は血の気が消え真っ青になった。
「まぁいい。とりあえず今は被害を最小限にすることが先だ」
「でも、宝珠は割れてしまって……」
意識を失いぐったりしている幼子を抱えながら、無風は泣きそうな顔で視線を下げる。
「宝珠に封印されていたのは、昔、天候を操って悪さを繰り返していた低級の妖だ。それほどまで強大な霊力はないだろうから、力を使い果たしたら自然消滅するだろう」
ドラマでもそうだった。荒神の宝珠は気性の荒い妖を無理矢理封じていたものであったゆえ壊れやすかったし、暴風雨も比較的短時間で自然におさまっていた。
「だから今は村の民たちの安全を確保させることを最優先にする。俺は先に村に行って皆を避難させるから、お前はその子を連れて後から来い」
「はい、分かりました!」
無風に指示を出すと、蒼翠はすぐに集落へと向かって駆け出した。
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